70 内藤廣(建築家)後編

内藤廣(建築家)

海の博物館、牧野富太郎記念館など数々の建築作品を手がけるかたわら、2001年から2011年まで東京大学大学院で教鞭をとった建築家の内藤廣さん。今回のインタビュー中には、伝説のレコードショップ「六本木WAVE」についての、衝撃の事実も。まずは、企画協力として参加している、21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「土木展」についてのお話からどうぞ。

前編はこちら

update_2016.8.10 / photo_tsukao / text_kentaro inoue

「WAVE」の名付け親、実は僕です。

六本木WAVE
1983年開店のレコードショップ。音楽をはじめさまざまな文化・流行の発信基地として愛された。六本木地区再開発に伴い、1999年に惜しまれつつ閉店。跡地は現在、六本木ヒルズ メトロハットとなっている。

 六本木とは関係のない話ばかりをしていますが、なぜ僕がこの街について語る資格があるかというと、実は80年代初めに「六本木WAVE」の立ち上げに関わっていたから。西武グループがWAVEをつくるときのコミッティーに最年少で入って、内田繁さんをはじめとするメンバーたちと、この街についてああでもないこうでもないと議論をしていました。その後、WAVEができて、街の構造が変わりはじめて......みたいなことを、一応知っている人間なんです(笑)。

 その頃、六本木交差点には外国人がたくさんいて、ネオンサインが光ってて、街はギラギラしていました。堤(清二)さんの言葉で今でも覚えているのは、「みんなが騒いでいる中で、黙るって目立ち方もあるよね」。だから、WAVEはサインもほとんど出さなかったし、百貨店物販の常識を変えようということで、床は板張りに。他にも、WAVEの裏通りの守り神として、アーティストの山口勝弘さんが、立体画像の「ホロニック地蔵」をつくったり、いろいろ面白いことをやりました。30年以上前のことです。

 ちなみに、「WAVE」って名前をつけたのも僕なんです。当時流行していた「ニューウェーブ」とか音楽を連想させるということで提案したものの、役員会か何かでダメと言われてしまった。でも、ロゴを決めるときに、デザイナーの鬼澤邦さんが真ん中の二文字だけ色を変えたら、WE(私たち)の間にAV(オーディオビジュアル)が挟まっているのはいい、ということで決まりました。

都市とは、人間そのもの。

 好きな街を聞かれると、僕は1990年代前半くらいまでのバルセロナと答えることが多いんです。なぜ90年代前半までかというと、オリンピックをやるということで、街をきれいにしてしまったんですね。メインストリートのランブラス通り沿いには「バリオ・ゴティコ」という世界遺産のゴシック地区があって、その反対側には「バリオ・チノ」という地中海最大ともいわれる"魔窟"がありました。あやしい人たちがたくさんいて、ひとりではとても歩けないような。

 それは、都市の影の部分ですが、バルセロナという街に独特のパワーを与えていました。都市って、人間の思考とか欲望が映し出される、言ってみれば人間そのもの。我々が表と裏を持っているように、都市も表と裏を持っている。裏のない人間なんて、なんだかつまらないでしょう? でも都市計画とか再開発って、その影を消してしまうわけです。

六本木は、再開発の街になってしまった。

 これは六本木にも通じるところがあって、六本木ヒルズ、国立新美術館、東京ミッドタウンができて、すっかり明るい街になってしまった。六本木って、再開発の街になっちゃったんだよね。

 ちょっと前までは、もっとパワーのあるディープな街だったんですよ。テレ朝があって芸能人がいて、一本路地を入ると暗くてあやしくて、六本木交差点の周辺が日本の文化発信地になっていた。谷地にあって若者のサブカル系文化が生まれる渋谷とも違って、台地にある六本木は、もっとハイ(カルチャー)で深い。

 そういうディープさって自然発生的にできたもので、つくろうと思ってもつくれません。実際、大型開発って投資と回収のゲームだから、そもそも自然発生的なものを受け入れにくい。ましてや未来を予感させるようなカルチャーなんてなかなか生まれないんです。