パブリックな展示が似合う場所。だから、街中に写真があふれたフェスティバルを。
世界中を歩き、旅することを通して自身が得た、体験、経験をさまざまな視点から写真で記録。さらにひと都市で撮り続けた写真を重ね合わせて、1枚の地図へと変貌させる作品『Diorama Map』はすでに20都市を数えるといいます。世界の都市を見つめ、生身で街や人、生活を体感してきた西野壮平さんが歩いて見つけた六本木のおもしろさ、この街で実現したいアートについて語ってくれました。
現在、「21_21DESIGN SIGHT」で開催している企画展『写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−』にも参加していますが、以前に六本木のギャラリーで展示をした際に1か月ほど通っていたので、六本木は自分なりに思い入れのある街ではあるんです。また、東京を題材にした作品を制作したときも、六本木を結構歩きました。『写真都市展』に出展している僕の作品『Diorama Map』は、自分の足跡が1枚の地図になるというのがコンセプト。経験や体験すべてが1枚になっていくので、その場所での滞在が長ければ長いほど、写真の枚数が多くなるんです。当時の地図を見ると、六本木の写真が意外と多い。つまり、それは滞在時間が長かった、たくさん歩いたということ。それだけ、歩くことがおもしろかったということなんです。
『写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−』
『Diorama Map』
歩く前の六本木は、多くの方と同じようにギラギラしていてダークな街というイメージが強くありました。むしろ、外から来る人たちは六本木に"生活感のない東京"を求めている部分もあると思うんですね。でも、実際に歩いてみるとそうではない。いちばん感じたのはレイヤー、ギャップのすごさでした。
たとえば、高い場所にも地下の世界にも見どころがありますし、昼と夜の街の顔にもギャップがあります。表通りはギラギラした印象ですが、一歩中に入ると神社やお寺、美術館といった静かな場所もある。あらゆるレストランやカフェ、そして人の生活が垣間見える場所も、下町っぽい雰囲気を感じる場所もあって、ひとつのエリアでありながら、都市"東京"の縮図が見えるんですよね。これだけすべてのものが凝縮している街って、なかなかない気がします。
僕は作品づくりのために、能動的に路地を歩くのですが、そのなかで"迷う"ということが重要だと感じます。地図は持たず、気の向くまま、自分が都市の中に溶けてしまうような感覚になるまで歩くんです。そこに行き着くと頭の中が空っぽになって、たとえば、「次の道を右に曲がろう」「左に行こう」と考えず、直感で動けるようになる。よく「"こういうところで撮る"という、しっかりしたイメージを持って撮影しているんですか?」と聞かれるのですが、まったくそういったことはなくて。言い表すなら"音が鳴る方へ"という感じでしょうか。
直感、感覚に従って歩いていると、どんどん狭い路地に入って迷子になることもあるのですが(笑)、それが"場所を知る"ことにつながるんですよね。それに、路地って単純におもしろいじゃないですか。人の声が聞こえ、軒先に花が植えられ、窓辺にカーテンがなびき......。そういうものを見るのが、すごく好きなんですよ。街の色や音も、音が聞こえてくるボリュームも、出会う人も街ごとに変わる。とくに東京はエリアごとにまったく色が違いますし、特に六本木はいろんな文化、人が入り混じった場所。その路地裏には、街の姿が表れている気がするんですよね。
東京を題材にした僕の作品は、2004年につくった『Tokyo2004』、10年後の2014年に制作した『Tokyo2014』とふたつあるのですが、『Tokyo2004』のころは大阪に住んでいて、東京に通いながら撮影をしていたんです。たしか1週間滞在して撮って、1週間戻って、また来て、というのを3回くらい繰り返したかな。だからか、2004年のほうは偏った観光者の目線という感じで、23区の西を撮っていることが多く、隅田川辺りはあまり入っていないんですよ。一方、『Tokyo2014』は自分が東京に住んでいるころに撮影したので、それこそ水が多いな、公園が多いなというように、生活して感じた東京が反映されている。建物が建った、スカイツリーができたという物理的な変化だけでなく、10年間に東京への視点が変わっているんですよね。2024年にも撮影したいと考えているのですが、今は東京に住んでいないので、離れてもう一度見たときにどう映るのかが自分でも楽しみなんです。
『Tokyo2004』
『Tokyo2014』
もし、今2018年の六本木を撮るとしたら、やはり1か月くらいは歩き回ると思います。先ほどお話したレイヤーのおもしろさやギャップの見えるところだったり、高い視点から、どんどん下にさがっていくような感覚だったり......。見えるもの、感じるものを直感で撮影していく感じになるんじゃないかな、と。写真家って、目の前にあるものをキャッチする感覚が強いと思うんですよ。だから、10年後にまた六本木を撮るなら、2018年に歩いたルートを辿って、そのときにある目の前のものを撮影するとおもしろいんじゃないかなと思います。
東京だけでなく、これまで世界20か国の『Diorama Map』をつくってきましたが、海外に行くときは1か月〜1か月半ほどアパートを借りて、現地の人の生活になじむような滞在をするんですよ。最初にするのはヘアカット。"バーバープロジェクト"と呼んでいるのですが(笑)、現地の人間になるという意味で、ローカルな床屋さんに行って髪を切るんですね。アムステルダムなら「アムステルダムのヘアカットにしてください」とだけ言って、その人に委ねるんです。
インドでは、路上で散髪している人にお願いしたのですが、テクノカットのような、サイドがパキッと揃った焼海苔のような髪型になりました(笑)。切り終わって鏡を見せてもらったとき、「いいだろう?」という感じでドヤ顔をされるんですよ。思わず自分でも笑っちゃいましたが、ある意味、潔くて気持ちよかったです。それから、東京の浅草では髭も眉毛も剃られ、ザ・七三の昔の演歌歌手のような髪型にされたこともありました。最初にヘアカットをすることで、土地の人間になっていくような感覚があり、何か別のものが見えてくるような気がするんです。
"バーバープロジェクト"を終えると、街を歩くことから始めます。まずはカメラを持たず、2、3日ほど歩き回るんですが、最初に"街の中心"を探すんですよ。地理学的な中心ではなく、その街が中心を置いている場所やもの、たとえばロンドンならテムズ川、ヨハネスブルクはポンテタワーというように、そこを中心に都市が広がっていく場所へ行くんです。
じゃあ、東京で言うと"中心"は何なのか。僕のイメージでは、皇居なんですよね。地図上でも23区のまんなかに当たるのですが、おもしろいのは"静"が街の中心にあること。皇居ってその中に新たな建物をつくることも、大きな音も出すこともできない、非常に神聖な場だと思うんですよね。そういった"静"が都市の中心にある街って、僕は東京以外に知らないんです。世界の大都市のひとつとして括られがちですが、またちょっと違う感じがしますね。そうやって、いろんな国で街の中心は何なのか、人々の生活がどこを起点にしているのかを探ると、都市ごとの違いを認識することができるんです。
『写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−』では、大小11点の作品を展示しているので、都市ごとの違いを見ていただけると思います。これまでもグループ展には参加させていただきましたが、今回は展示方法がおもしろいんですよ。写真の展示は壁面に並べることがベーシックですが、床と平行の箱の上に写真があったり、宙につるされていたり、音楽と写真が融合していたり。作家それぞれの作品のエネルギーがぶつかり合っているようで、ときに交わり、融合し合う......。ある部分ではすごく反発していて、ある部分ではすごく合致していて、腑に落ちるような、落ちないような。その感覚が"都市"をテーマにした作品の集合体という感じがします。
都市を撮るときの感覚は、写真家の記憶や経験、体験によって捉え方が変わると思うんですね。それがいい化学反応になりそうだと、このインスタレーションを見てすごく感じました。きっとご覧いただく方も作品によって視点が違うので、ぐるぐると目線を振り回されると思うんですよ。そういう経験って写真展では珍しいですし、それこそが"都市"の中にいる感覚と重なるんじゃないかな、と。ぜひ、多くの方に体感していただければと思いますね。