六本木をアートとデザインのジャンクションに。
コンテンポラリーデザインという、ちょっと聞き慣れないジャンルで活動をするwe+の林登志也さんと安藤北斗さん。水のにじみのような模様が浮かび上がっては消えるテーブルや、釘のような鉄線で覆われたイスなど、海外でも評価の高い彼らの作品は、シンプルゆえに思わずじっと見入ってしまうような不思議な魅力を持っています。2018年10月19日(金)〜11月4日(日)まで開催される「Tokyo Midtown DESIGN TOUCH 2018」に出展している作品の制作エピソードとともに、コンテンポラリーデザインの海外事情やそこから私たちが学べることなどをお聞きしました。
林自分たちのジャンルをコンテンポラリーデザインと位置づけているのですが、コンテンポラリーデザインには今のところ、おそらくいろんな定義があると思うんです。そんななかで僕らなりの解釈としては、仮にアートとデザインが対極にあるとしたら、その中間くらいにあるものだと考えています。
僕たちのものづくりはデザインベースで始まっていて、軸足はあくまでもデザインに置いているので、たとえばイスとか机みたいな機能性は確実に持たせるようにしています。しかもデザインの場合は、社会との接点をたくさんつくらなければいけないから、経済的に成り立つことも重要です。
一方でアートというのは、社会に対して問題提起をする力があったり、経済性や合理性などは脇に置いて、つくりたいものを純粋につくるという思いをベースにしていることが多いですよね。僕らが作品をつくるときは、機能が備わっているという意味ではデザインなんですけど、経済性や合理性という考えはいったん外して、表現を突き詰めるとどんなことができるのかを追求します。それが僕らの考えるコンテンポラリーデザインなんです。
安藤僕たちの作品は、ものによってはかなりアートっぽく見えるらしいんですけど、実を言うとあまり腑に落ちていなかったりするんです。というのも、諸先輩方がつくってくださった脈々と続くデザインの歴史やコンテキストのなかで、作品がどうあるべきか、あるいはどんなふうにそれらを更新できるかということに関して、かなり慎重に設計しているつもりなので。
アートにももちろん歴史やコンテキスト、平たく言うとお作法みたいなものが当然あると思うんですけど、僕らはそれらを体系化して理解したり、咀嚼できているわけではない。アートに対して自分たちをプロットしている感覚ではないので、やっぱりデザインベースなんですよね。そんな状況でアーティストと名乗るのは、アーティストの方々に申し訳ないというか......。
林たしかに無責任になっちゃうよね。特に海外だと、どういうステートメントで活動しているのか、自分たちで発信していくことも大切なんです。ヨーロッパやニューヨークなどを見ていると、デザイン業界におけるプレイヤーの数が多いこともあって、コンテンポラリーデザインをやっている人たちの経済が、別個に回っているようです。コンテンポラリーデザインに特化したギャラリーがそれほど珍しくなくて、アート作品のようにそのギャラリーを通して実際に売れたりするので。
昨年、六本木アートナイトに『Disguise』という作品で出展したのですが、現象などを見て驚いたりする反応のしかたに関しては、日本と海外の差を感じたことは特にありません。ただその作品をたとえば家具として評価するような視点を日本の場合はまだ持っていなくて、「なんなのこれ!?」「おもしろいね」で終わっているところはあるかもしれません。
『Disguise』
安藤ヨーロッパなんかだと、コンテンポラリーデザインの評価軸がきちんとあるんですよね。スタンダードができているので、コンテンポラリーデザインのフィールドのなかでどういったものをつくろうとしているのかを、体系的に理解してくれているような気はします。
日本はそもそもコンテンポラリーデザインの歴史が浅いですし、そういったものづくりをしているプレイヤーが極端に少ないのが現状だと思うので。
林マーケット自体がそんなに大きくないので、体系的に評価できる人が今のところ少ないのかもしれないですね。
安藤メディアアートはここ20年くらいで評価軸が徐々に定まってきた印象がありますが、インスタレーションもコンテンポラリーデザインと同様、比較的まだ評価軸が定まっていないフィールドなのかなと思っていて。何がインスタレーションなのかっていう定義も曖昧ですし、もともとの文脈がないぶん、いい悪いを判断しきれないところがありますよね。文脈をどう理解してものをつくるのかが非常に重要だと思うんですけど、それ以前に文脈がはっきりしていない。
林とはいえ文脈っていうのは、ギャラリーなどに対して必要になるものだったりもするので、僕らとしては単純におもしろいものをつくりたい。みんながぐっとくるような現象をすくい取って展示したいっていうのが、最もピュアな思いではあります。
安藤第一義的にはやっぱりそれだね。そこが欠けると作品としての強度が出てこないし、文脈ばかり狙っていても薄っぺらいものになってしまうから。逆に表現だけがおもしろくても、後ろにあるコンセプトやロジックがしっかりしないと、それはそれで薄っぺらくなってしまいます。
僕はコンテンポラリーデザインを通して、新しいデザインのあり方や可能性を広げていければいいと思っています。デザインの役割をどんどん拡張できればいい。新しい可能性っていうのはまだまだそこらに転がっていて、形にすることで新しいデザインが広がって、さらに社会に実装することができたら、よりよい未来が待っているような気がするんです。
僕らはプレイヤーとしてそういったものをつくっていくのが役割だと思うので、キュレーターの方などにフィールドを広げてもらえたら理想的ですよね。
林そういう意味でも、六本木アートナイトのようなイベントはフィールドを広げる場になっているんでしょうけど、若手が作品を発表する場所が圧倒的に少ないのが、東京の課題だと思うんです。たとえばベルリンなんかだと、そういう場がたくさんあって、個人でそこにアプライして、国などから補助金をもらったりして作品を発表する方法が珍しくないんです。
東京ミッドタウンにしても六本木ヒルズにしても、そういうことのできる空間自体はつくれると思うので、常に誰かが何かを発表している場所がもっと増えたらいいですよね。そこで展示することがひとつの登竜門になったり、箔が付いたりするような場所だったら話題性もあるし、見に来る人も増えるだろうし。期間限定のイベントだけでなく恒常的な発表の場が複数あると、よりアートの街らしくなるんじゃないでしょうか。
安藤六本木など東京の街が、どんどん肥大化しているのと同時に均一化しつつあるなかで、今後は"らしさ"がより重要になってくるはず。六本木の場合はたぶん雑多さや、多様性っていうのがキーワードなんでしょうけど、らしさを際立たせるためにも都市の構造としてジャンクション的な機能をもっと持たせていくべきなんじゃないかって思うんです。
六本木アートナイトで、デザイン側の僕たちが作品を発表したみたいに、もしアートとデザインの間に境界があるとすれば、僕たちがアート側の領域に入っていったり、逆もまたしかりで、領域をどんどん溶かしてさらに多様性に溢れた街になっていけばいいですよね。もっといろんなジャンルの人が出たり入ったりして、ハブだったりジャンクションだったりの機能を持った街になっていくと、おもしろいんじゃないかなと思います。
取材を終えて......
「このあいだはスーパーボールをたくさん買ってきて、床に落としたときの弾み方をずっと観察していました」と安藤さん。テクノロジーを駆使した作品というイメージを勝手に抱いていましたが、アイデアの発想やつくり方はアナログで、「学生のときは、デザイナーってもっとかっこいいものだと思っていた(笑)」とのこと。とはいえ、実験好きな少年の心を失っていないのが、彼らの魅力なのでしょう。コンテンポラリーデザインがアートとデザインの世界にどんな新風を吹かせるのか。彼らの活躍とともに追いかけていきたいと思いました。(text_ikuko hyodo)