アーティストやキュレーターと鑑賞者とのプライベートなワークショップを六本木で。
インスタレーションをはじめ絵画や立体など、多様な作品を国内外で発表している現代アーティスト・鬼頭健吾さん。5月26日から27日にかけて行われた六本木アートナイト 2018では、作品を通じて儚くも幻想的な夢を私たちに見せてくれました。そのほかに、過去にも2度六本木で行われた展覧会に参加経験を持つ鬼頭さんが、アーティストの立場から、この街とアートの現在地、そして可能性について話してくれました。
最近、感じていることのひとつに、アートそのものに対する関心は高まっている一方で、アーティスト志望の若者が減少しているのではないかということ。もちろん子どもの数自体が減少していることの影響はあると思いますが、それでもデザイナー志望は増えるなか、アーティスト志望の若者は僕が若い頃よりも減っているように感じます。
その原因のひとつに、インターネットの発達によって情報が簡単に手に入ることはあると思います。情報イコール結果に思えて、それが人を不安にさせる部分がある。実際はその結果になるかどうかわからないのに、どんどん保守的になる。アーティストは保守的では絶対になれませんから。だから大学(京都造形芸術大学)の授業では、そんな学生の保守的なメンタルをほぐしていくところから始まります。
僕が教えているのは大学院生(京都造形芸術大学大学院)なのですが、僕はそんな学生たちに対して伝えていることが3つあります。ひとつ目は「働くな」。アート以外で働いちゃダメだと。もちろんそれが叶わない環境もあるけれど、「それぐらいの気持ちを持って生きていかなければアーティストにはなれないよ」というような話をします。ふたつ目は「親から援助をもらえ」。というのも学生時代にアートをお金に変換することは無理な話。ならば一番理解してくれるであろう親を説得できないようなら、その先自分の作品で誰も説得できないと思うからです。
学生はみんな強い罪悪感を持つんですよ。働かないと反社会的なんじゃないかという罪悪感を。僕の若い頃はそれがまったくなかったんですけども(笑)。だから3つ目は「罪悪感を持つな」。「アーティストとは社会で認められる存在であり、そういう存在に自分がなるということを意識しながら生きてください」と伝えます。すると「今までそんな風に思ったことがなかった」と、目から鱗のような状態になる学生が多いですね。でもそういう覚悟を持つことで、親から援助を得ずともなんとか作品をつくり続ける学生が多くいるんですよ。
学生と言えば、片岡真実さんがキュレーションした卒業制作展にはちょっと衝撃を受けました。従来、卒業制作展と言えば、学生の作品を等価に見せるものですが、片岡さんは自身のテーマに沿って、作品を選んで展示していたのです。ある作品は切り捨てられ、ある作品は選ばれる。それは残酷かもしれませんが、そもそもアートとは平等ではありませんから、学生にその現実を感じてもらうためにもとても可能性に満ちた卒業制作展だと思いました。
うちの大学のある教授が、こう言っていました。「今、世の中はテクノロジーによって万能なブラック・ボックスになっている」と。昔はカメラでも何でも、その作動原理を知らなくては使いこなせなかったのに、現代のテクノロジーは、何も知らなくてもシャッターさえ切れば撮れてしまうから、オープン・ボックスではなく巨大なブラック・ボックスを形づくっていると言うのです。つまり、原理はわからなくても、疑うことなく欲望を満たしてくれる現代に、私たちは生きているんです。
先ほど話に出たお金の話、経済的なものとアートやデザインをどのように結びつけていくのか。それはうちの大学でも大きなテーマになっていて、僕自身もアーティストとして考えることではあります。自分の作品を売買するのはシンプルですが、企業や行政などが絡んだ複雑なアートプロジェクトも増えてきています。そういったなかでデザイナーはさまざまな要求をつなげながら応えることがうまいですね。一方でアーティストはそれがあまりうまくありません。というのも前提として、人の発言をどう疑ってかかるのかが、アートの側面だから。やはりその姿勢を大切にしたいですね。
取材を終えて......
のびやかで、なにものにもとらわれていない雰囲気を持つ鬼頭さん。それは鬼頭さん自身の作品が抱えた有機性にもつながるようで印象的でした。その一方で、大学で教鞭を取られるときは、ときにシビアにアートの本質を学生に問う姿も垣間見えました。「働かないことに対して、罪悪感を持つ必要はない」、「アートはそもそも平等ではない」。どきっとする視点を、私自身、与えてもらいました。(text_nanae_mizushima)