”六本木を止める”パフォーマンス、芸術家のつくる実験空間、テントナイト。
壁や床に花の模様が描かれた部屋に観客自身が踏み入れる「Echoes」シリーズや、シャボン玉による大規模なパフォーマンス「Memorial Rebirth」など。ダイナミックで非日常感ある作品で知られる大巻伸嗣さんが考える、未来の六本木、そしてパブリックアートや住空間とは? インタビューは「そもそも、六本木にないものなんてあるんですか?」という、大巻さんからの逆質問からはじまりました。
六本木って人もたくさんいるし、モノだって何でもある。でも考えてみれば、ないものだって、まだけっこうあると思うんです。末期の都市というのは、あらゆるものが飽和して、ないものがなくなっていきます。そして飽和したあとは、ザーッと潮が引くようにあっという間に衰えていくもの。たとえばウチの実家のある岐阜の駅前なんかは、70年くらいで幕を閉じました。まあ、実際には閉じきってはいないけれど、シャッター街になってしまったので、ほとんど街としての機能自体は失ったも同然です。
つまり、ないものがなくなったら、街は終わり。アートイベントはある、美術館もたくさんある、音楽だって買い物だって何だって楽しめる......。さっき、僕が「六本木にないもの」を聞いたとき、「静寂がないんじゃないか」という意見が出ました。たしかに、六本木はいつもザワザワしている。静かになったらいいなと思う人もいるでしょうが、もしかするとこれこそ、六本木という街を飽和させる最後のカードなのかもしれません。静寂を求めてしまったがゆえに、すべてが崩壊してしまうのです。
ちなみに今回、森美術館で開催されている「シンプルなかたち展:美はどこからくるのか」に出展した「Liminal Air Space-Time」という作品で、六本木にひとつ「静寂」をつくり出してしまいました(笑)。
シンプルなかたち展:美はどこからくるのか
Liminal Air Space-Time
最初は白い一枚の布が、ただゆっくり動いてるように見えるんですが、最終的にはそれが布であるのかすらわからなくなる。昼と夜でもまったく違った存在に変わります。この作品のコンセプトは、ふんわりとした「空(くう)」の時間をつくること、そして自分たちが見ているものが本当なのか、自分たちの持っている概念をもう一度見つめ直してみよう、というもの。物質の信用と裏切りといってもいいでしょう。
みなさん、もちろん自分のことは、よく知っていると思いますが、夜寝ているときの自分の状態を正しく理解している人は多くはないでしょう。そう、誰にも未知なる時間はあるし、あらゆる物質には未知なる「域」がある。寝ているときの自分は生きていると思っていたけれど違っていて、それこそが死かもしれない、とか。これだけいろいろなものを理解できているように感じられる時代の中で、実は自分が何を見ているかすらもわかっていない。人間とはそういう、アンニュイで、あいまいな存在なのです。
一枚の布は、舞台でいえば緞帳。幕がふわーっと上がって、都市の中で揺れ動くエネルギーの波が上がったり下がったりしながら、また全体を覆うように幕が閉じる。そして、再びまた新しい幕が上がっていく。世界が終わるようで、また新しい世界が生まれる。布が上がって落ちる10分ごとに新陳代謝をして、日本の中心である東京という街が生まれ変わるようなイメージです。
この作品を発表したのは、東日本大震災の翌年のこと。新しい世界が毎日生まれて、繰り返されていることを表現したいと思って、展示をした箱根彫刻の森美術館では、外の風景が見える部屋を選びました。もちろん今回の森美術館も、うしろに窓があって、東京の街の景色が一望できます。
もしかすると未来には、この風景自体がなくなってしまうかもしれません。事実、震災のときには、放射能の問題で東京の街は捨てられるかもしれないという状況にもなりました。東京という街の終わり、そして終わりはまた、はじまりでもある。ある意味、いいことも悪いことも、そして皮肉も、すべて含んだ作品になっています。
最初にアトリエを構えたのはビジネス街の新御徒町だったし、次は下町の北千住の商店街、今まさに家を建てようとしているのは、三浦半島の先端です。六本木って、僕にとって一番遠い街なんです。あらゆる場所にエネルギーが絶えず充満していて、コップにたとえるなら、あふれはしないけど、なくなったら常に水が注がれ続けるイメージ。住んだことがないからわからないけれど、たえず流れていて止まらない街なんだろうな、って感じてて。
でも考えてみれば、震災のときには、すべてが一瞬止まったのかもしれません。きっと、このまま終わってしまうんじゃないかと、みんな恐怖を感じたことでしょう。ちょうどこの間、「六本木アートナイト2015」で、宮島達男さんの作品「カウンター・ヴォイド」を再点灯させる「リライトプロジェクト」がスタートしました。あのパブリックアートも、震災のときからずっと止まったまま。当たり前の風景が当たり前にあるのが一番幸せなことですから、動きはじめてくれたら、六本木の街も少し元気を取り戻せるんじゃないかと思います。
リライトプロジェクト
あまりにリアルすぎて、どうしたらいいのかわかりませんが、"六本木を止める"パフォーマンスができるといいですね。たとえば、いっせいに六本木じゅうの電気を1分間だけ消してみる。そして、「カウンター・ヴォイド」と一緒にスイッチオンするとか。人間いやなことは忘れたいし、忘れないと生きられない。でも、僕を含め、あの何もできない無力さを経験したからこそ、やれることからやろうという意識になった。だからこそ今、止まった瞬間に意識を向けることが重要だと思うんです。
絵とか彫刻といったアート作品って、自分の内側にあるものを閉じ込めたもの。一方で、ふだん僕がつくっているのは「作品」というよりは「舞台」みたいなものなんです。たぶん、宮島さんの「カウンター・ヴォイド」なんかも同じで、そこにパフォーマーがいるわけではないけれど「舞台」。自分の作品の中で、みんなが勝手にパフォーマンスをする。そこで繰り広げられる日常の一部になれたらすてきだな、といつも思っています。
そうやっているうちに、オーダーはどんどん大きく、毎回こんなの絶対できるはずがないと言われるくらいになってしまって......。これまでで一番大きな作品は、上海で展示した「Echoes - Infinity」で、約550平米。今までやってきたものの倍以上の大きさで、しかも期間も半分しかない。それでも、とにかく「やる!」と決めて、完成するまで1週間、寝ずに描き続けました。踏んでもらうことで完成するインスタレーションですが、心が痛むのですぐには踏めません。でもお客さんは、絵の上で走ったり、足で線を引いたり。「普通に歩いてほしいんだ、やめてくれー」みたいな(笑)。
「瀬戸内国際芸術祭」のときにつくった「Liminal Air-core-」は、ゲートとしての柱であり、いわゆるカラーチャートをイメージした作品です。カラーチャートとは、写真と一緒に撮影しておくことで、あとで写真の色みを調整するときの基準となるもの。それと同じように、未来に向かって風景や環境を比較し続ける基準となる、というのがコンセプトでした。
訪れた人たちは、ゲートの前で「ピース!」なんてしながら写真を撮るでしょう。そして今から30年、50年、100年たったときに、その写真を集めると、風景がどう変わったのかがわかる。「何も変わらなくてよかったね」となるのか、「ああ過去の人たちは違った風景を見ていたんだね」となるのか。最終的には、そういう作品になればいいなと思ってつくりました。大事なのはピースの向こう側、いつも僕は、向こう側にある「未来」を考えながら作品を制作しています。
Echoes - Infinity
Liminal Air-core-
未来の六本木に、僕から要望することはとくにないので(笑)、先ほどのパフォーマンス以外に、この街でやってみたいことをいくつか。まずは、建築というか、新しい空間をつくること。日本では建築家の考えが強くなってしまって、どうしてもアートは飾りとして扱われがちだと思います。でも、もっと環境自体を変えていくようなコラボレーションができるんじゃないかな、と。アイ・ウェイウェイとヘルツォーク&ド・ムーロンが設計した、北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」なんて、まるで建築物自体が彫刻のようですよね。。
まずは建築家の方々に、考え方を変えてもらったほうがいいかもしれません。たとえば街の中に置かれれるパブリックアート、現在ではかなり一般的になりましたが、それでも主張しないデザインのものが好まれるし、カラフルで主張の強いものは嫌がられる。それはきっと、自分の建築が邪魔されてしまうからなのかな......。建築家の人たちの理想の街ってなんだろう?言い方は悪いですが、人もいないし生活感もないゴーストタウンなんじゃないかなって思うことがあります。
最近感じるのは、どんなにいい建物であっても、人はそこに流動的に参加しているだけにすぎなくて、最終的には建物は人を拒んでいるんじゃないかということ。人を拒むんじゃなくて受け入れるようなアート空間、もっといえば彫刻の中に人を住まわせてみたいですね。もしかするとそれは、荒川修作がやっていたような人間を超えていくための空間なのかもしれませんね。
建築家のつくる空間ではなくて、芸術家のつくる空間。壁全面にストリートペインティングをして、それを塗り替えていくのもいいし、ダンサーに1か月レジデンスのように貸し出して自由に遊ばせてみるのもいい。どんなパフォーマンスをしてくれるだろう、どんな変わった使い方、クリエイティビティを発揮したどんな遊びが生まれるんだろう。そうやって、いろいろなジャンルの専門家とコラボして、たえず実験していけば、本当の意味での人間のための空間をつくっていけるかもしれません。
六本木には、子どもを連れてきても放っておける場所がないでしょう? だから主婦とコラボしてみる。あるいは、お年寄りがいないので、おじいちゃんおばあちゃんとコラボしてみる。そうしたら、いつか巣鴨から六本木へシフトチェンジが起こるかもしれない。ワークショップや講座を開いて、どんな空間がいいか、みんなで考えるのもいい。そんな実験的なアート空間、もはや「アート」という名前がついてなくてもいいですね(笑)。
住んだり遊んだりする空間とは、まったく反対の発想でいえば、街なかでテントを張って一晩過ごすのはどうでしょう。六本木でテントを張っている人なんて見たことあります? ないでしょう? そう、まさにアートナイトならぬ「テントナイト」。東京ミッドタウンの芝生広場とか、六本木ヒルズの「ママン」の下をテント村にして、みんなでカレーをつくったり、キャンプファイヤーをしたり。
ママン
最近、街でホームレスの人たちを目にすることって少なくなりましたよね? でも昔は、街の中にどこかすき間のような場所がありました。たとえば、「あしたのジョー」で丹下段平がジムを建てた、河原の橋の下とか。言ってみればそこが、人としての最後の「境界域」だったように思えます。でも、いつしかそういう場所を排除し、表面的なきれいさを優先する窮屈な世の中になってしまったのではないでしょうか? だからこそ「テントナイト」です。もしかしたら、震災のときように、本当にそういうことをしなければいけないときが、また来ないとも限りませんし。
「境界域」というのは、僕が作品をつくるうえで、いつも意識していること。六本木を止めるパフォーマンスは生と死の境界だし、芸術家のつくる空間はアートと建築の境界、テントナイトだってそう。「境界」というと、みなさんは一本の線だと思うかもしれませんが、実はそこには奥行きがあります。大気圏のようなもので、ここから向こうは宇宙で、ここから向こうは地球と言いながら、その境目はあいまいで揺らいでいる。それと同じように「線」ではなく「域」なんです。
能の舞台のうしろには、「影向(ようごう)の松」という松の木が描かれています。「影向」というのは、神などが目の前に現れるという意味。あっち側(神の世界)でもないし、こっち側(人間の世界)でもない。でも、こっち側でもあるし、あっち側でもある。そういうあいまいな領域の中で、人をたゆたわせる。アートでも空間でも街でも、そういう状況をつくるのが一番面白いと思うんです。
取材を終えて......
「バカバカしいことばかり言ってるけど」と笑いながら、たくさんのアイデアを話してくれた大巻さん。思いつきのようでいて、実は筋が通っているのがさすがです。六本木でテントを張るというのは、以前、谷川じゅんじさんも言っていたアイデア。方向性は少し違いますが、そちらもぜひご覧ください。(edit_kentaro inoue)