今ここにある「根源的なもの」を身体で感じる。
栗林隆そもそも僕の作品はタブーを扱っていることが多いし、なかなか手を出しづらい作家だろうと思います。にもかかわらず、4年ぶりのオールナイト開催となる『六本木アートナイト2023』でオファーが来たことに面白さを感じました。大前提として、僕なんかは展覧会のために制作しているわけではなく、生き方というか、自分と社会との関係性の中でものをつくっています。だからこそ、枠組みがあって制約が多いイベント自体とは相いれない部分があるんですね。海外であれば、アーティストのやりたいことを形にするために、運営側もチャレンジしてくれることが多いのですが、日本では制約が優先されがちで、どうしても我慢とか妥協の方向に行きがち。最終的に「やっぱりやらなければよかった」という気持ちになることもあるんですよ。別にケンカしたり、戦かったりしたいわけではないのですが、どこか難しさを感じてしまうのも事実です。今回は、主催者側が覚悟を決めて一緒にチャレンジしよう、ということだと思い、やってみよう、という気持ちでお引き受けしました。
鴻池朋子今日は、根源的な話をする会なんですね(笑)。たしかにコロナ禍の3年間を経て、原点に立ち戻るときなのかもしれないと、栗林さんの話を聞いていて思いました。私は『六本木アートナイト』のコンセプト、つまり一晩だけ開催して次の日には撤去してしまうと聞いたとき、「それじゃあ、うちの職人は動かないですよ」と伝えたんです。ぱっとつくって賑やかして終わるような、形骸化したお祭り騒ぎにとても違和感を抱いたんですね。観客の身体はすでにコロナを経て変容しているのに、企画側が気づいていない。それで会議の場で、「このボリュームだったら少なくとも2カ月は展示するのに、1日ってさすがにないよね!?」と言って、緊張を走らせてしまったんです。「ああ、やっちゃったな」と思いつつ、一人ひとりが持ち帰って何かしら感じてくれるだろうと期待もしていて。そうしたら国立新美術館のエントランスロビーに、《武蔵野皮トンビ》を会期より3週間ほど早く展示できることになったんです。この美術館の決断はすごいことです。美術館や実行委員会って、大抵ガチガチで融通が利かないことが多いのですが、今回は国立新美術館の展示室の外のアトリウムという境界的な場を設置場所として選んだこともあり、スケジュールが可能になった。その対応は、一歩前進だと思いました。
栗林1日のために3カ月程度かけて準備をするのは大変ですが、関わる人の熱意を感じたら僕らだって頑張れる。一方、「何日の何時までに搬入して、何時までに撤去してください」とルールや事務的なコミュニケーションばかりになってしまうと、イベント業者じゃないのになあと辟易してしまうんです。些細なやり取りかもしれませんが、アートに関わる人の心意気を関係者全員で変えていく潮時にきているのではないかと思います。"How To"に終始するのではなく、本来はスタート地点に"魂"があるべきだと思うのです。
若い子たちが、「どうやったら有名になれるんですか?」「どうやったらお金を稼げるんですか?」と、すぐに答えを求めたがるのもその弊害。世の中が先のことばかりを見せようとするから、今この瞬間、自分がやるべきことに集中できていない。経済偏重で、未来のためにこうするべきと声高に言われる時代ですが、今を集中して楽しむことが未来につながっていくのが、あるべき流れでしょう。未来から入ってしまうと、不安や恐怖が先立って、今に集中できなくなるんです。
僕はよく「行き当たりばっちし」と言っているのですが、何も考えないで生きるのが本来の生き物の姿。動物的感覚を失ってしまうと、頭ばかりを使うようになるんですよね。感覚的にピンときたものを実行できるのがアーティストであって、僕らの制作は春夏秋冬の流れに沿って存在するもの。そのあたりをもう少し理解してほしいし、難しいのは承知の上で、現状を変えていかなければいけないという人がひとりでも出てきてほしいですね。
栗林鴻池さんは日本でも「そんなこと関係ねえ」ってガンガンやっちゃってるはず(笑)。それくらい素敵な作家さんってことなんですけど。僕の作品の場合は、単体で成立するというより、空間の特性を生かした作品が多いので、実現できるかどうかのせめぎ合いがどうしても多くなるんです。そのとき「できない」と言うのは簡単で、どんなことでも「やってみよう」とトライすることがとても大事。しかし、日本だとなぜか作家の「わがまま」と捉えられてしまう場合が多い。例えば、《元気炉》というスチームサウナの作品は薪(まき)を使っているのですが、火を使えば煙も出るし、においもするのは当然です。チャレンジしたいということであれば、まず解決できる方法を探る必要がありますよね。
昨年参加した『ドクメンタ15』はその点、「燃えたら消せばいいじゃないか」って、当たり前のことが当たり前に通じるし、より重要なことを優先して考えてくれました。日本では、作品に触ったら壊れてしまうという理由で、できないことばかりが増えてしまうけれども、壊れたら直せばいいだけの話だし、極端な話、やけどしたり、ケガしたりしながら関わっていけるくらいが理想というか。僕が普段インドネシアに住んでいるから、そう思うのかもしれませんが。そういう意味でも鴻池さんと僕が『六本木アートナイト』のゲストというのは、すごく面白いし、チャレンジングだと思います。僕も僕だけど、鴻池さんも鴻池さんだしなって(笑)。
鴻池栗林さんの話を聞きながら、ふと超地味なことを思い出したのですが、今回、作品の搬出のために4tトラック3台を使うと運送業者から見積もりが出てきました。予算はもう決まっていたので3台でも2台でも関係はなかったのですが、きっと2台でいけるだろうと、私は自分で作品のトラック積込み図面を手書きで起こし、業者さんを説得して2台に削りました。そんなに頑張った自分がおかしくて(笑)。でも私も含めて、みんながこういう地味なことの積み重ねをやればいいんですよね。なんていうか、作品というのはその派手な形にあるのではなく、栗林さんが話しているのはすごく当たり前のことだと思う。
栗林特別な話ではまったくないですね。
鴻池私は未来について考えることを一旦止めて、足元を見た方がいいと思うんです。遠くの山へ行かなくても、六本木でも自然は見つけられます。風のにおいや、今の季節だったら緑のにおいが濃くなってくることを幸せだなと思うだけでもいいんです。大切なのは、それらを感じられる身体があるかどうか。主催者側が何か目新しいものを与えるというのではなく、観客側が主体となって作品を能動的に感じ、感覚を開いていく時代になっていると思います。遠く広くをオブザーブするような、視覚優先の考え方で物事を進めるよりも、まずは自身の手元や足元にある土や雑草を感じながら、自分の身体スケールでそれぞれの仕事を粛々と楽しんでいける方がいい。
栗林さんがおっしゃるように、燃えてしまったら急いで消せばいいし、やり過ぎちゃったら誰かが止めればいい。「ここは危ないですよ」「このやり方は失敗するからダメですよ」と先回りする母性のように、人間の本来持っているセンサーをつぶしているのが今の美術館なんです。本能的な欲求なのかもしれませんが、美術館で仕事をするたびに自分が次第に弱くなっていくようで、それよりも外に自分をさらしていきたくなってしまうんですよね。
栗林せっかく《元気炉》のように自由なものができたのに、美術館で展示をするとさまざまな規制が入って、本来できていたこともできなくなる。これって何か意味があるのかなと思います。コロナ禍を経ていようがいまいが、みなさんも同じような違和感を抱くことになっていたのではないでしょうか。
撮影場所:『六本木アートナイト2023』(会期:2023年5月27日~5月28日)期間中の国立新美術館および六本木ヒルズアリーナ