目線を変えることで見えてくる美しさ。
地域に根差したプロジェクトの中で、ひとつ大きな経験になったのが地元・熊本で行った、熊本「ものがたりの屏風プロジェクト」。今も水害で大変な中ですが、2016年の制作時も熊本地震で大きな被害を受けていたんです。そういった時、作品をつくるアーティストは即時に力になれないと感じた部分もあって......。例えば音楽のアーティストであれば、すぐに現地入りしてチャリティーライブができる。でも、物をつくるとなるとどうしても時間が必要で、即時に動けないんです。そんな時、偶然にも地元で建築家をしている高校時代の先輩に声をかけていただいて、チャンスを得ることができました。先輩が古い家のリノベーションを主な仕事にしていたご縁で、今はなき老舗の表具材料屋さんから廃棄予定の屏風をいただき、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の学生たちとプロジェクトをスタートさせたんです。まずは屏風を修復した上で、じゃあここに何を描こうとなった時、熊本の方たちから所縁のある品々と共に物語を募集し、それを屏風の中に閉じ込めることにしました。
現在、サントリー美術館のリニューアル・オープン記念展Ⅰ『ART in LIFE, LIFE and BEAUTY』で展示しているのが、熊本で制作した作品。使った屏風は、衣桁という調度品にいろいろな着物がかかった風景を描く「誰が袖図屏風」と呼ばれるもので、江戸時代の生活の空気を感じるものです。見る側が「この着物を着るのはどんな人で、どんな生活しているのかな?」、「こちらの着物は床に置いてあるけれど、あちらは衣桁にかけてある。どういうことなのかな?」と、物語を読み解いていく形式の屏風だと個人的には感じています。生活というのは、淡々とした日々の積み重ねでもありますが、同時にひとりひとりの小さな物語の積み重ねでもある。今回並ぶ屏風も、「このモチーフにはどんな意味合いがあるのかな」「モチーフの裏には、どんな物語が潜んでいるのかな」と想像すると、より楽しんでいただけるのではないかなと思います。
日常生活の景色というのは、私自身、コロナ禍でより見えてきた気がするんです。緊急事態宣言と桜の満開時期が、ちょうど被っていて。ふらりと出た散歩の最中に、人間の生活は変われど、花が満開になって散り、葉っぱになるという自然現象は変わらず営みが行われているということを実感しました。自然だけでなく、信号はけなげに点滅し、道路交通標識は当たり前にそこに存在している。"変わるもの"と"変わらないもの"が、いっそう明確に見えた気がしました。
そうやって、目にして感じたことはあるものの、普段、自分がどんな視点で物事を見ているかは、正直わからないんです。もっと言えば、特別、他の方と違った視点を持っている自覚もなく(笑)......。ひとつ言えるとするなら、昔から受け継がれてきた日本の伝統――先の文脈で言うと"変わらないもの"と"時代とともに洗練されてきたもの""時代とともに変わる現代の風物"といった、歴史や時間を重層的に見ていく視点、文化の多様性を受け入れる視点はあるのかなと思っています。
特に私が住んでいる京都は、わかりやすくそういった景色が街中にあふれていて、実はどこでも発見できるものなんですよね。歴史ある寺社仏閣は修理などを経て変わっていく部分もあるけれど、雰囲気はそのまま。歴史や伝統の重みを感じる場所でありながら、一方で私たちの生活はコンビニに寄ったり、ファーストフードを食べたりという中で成り立っている。その両方が組み合わさっているのが面白くて、それが自分たちの生活なんじゃないかなとも感じるんです。私の作品の中には、松の木と信号、桜とアメリカ国旗と言った異質の組み合わせが描かれているものが多くて、時にご年配の方が「松の木と信号が並んでいるなんて!」とおっしゃることもあるのですが、実はどこにでもある風景なんです。何となくよくない風景のように感じるけれど、描き方によって美しくもなる。そういった目線で見ると、日常の何気ない風景が面白く見えてくるんじゃないかと思うんです。
個人的に、コロナ禍でもうひとつ発見したことがあるんです。自粛期間中、舞台芸術の方々は公演がまったくなく、必然的に無収入になっていた。そんな中、京都の茂山千五郎家の狂言師たちが、3月の頭くらいから「YouTubeで逢いましょう!」という動画配信を始めたんです。SNSで「仕事ないからやりま~す」くらいのテンションで、しかも無料で。また、その番組がすごくはっちゃけているんです。最初は練習用の舞台に集まって配信していたのですが、外出自粛でなかなか全員が集まることができず、途中からZoomで参加する人も出てきて。それならと舞台に来られる人は"体だけ"で芝居を、Zoomで参加する自宅待機組は"声だけ"を担当して"アテレコ狂言"を始めたんです。同世代が何人かいて以前からおつき合いがあるのですが、千五郎家の人たちって、いい意味でふざけた人たちなんです(笑)。伝統芸能なので本来は型が決まっているはずなのに、声を担当する人たちが型とは全然違うことをどんどんアドリブで入れ始めて、動く人をすごく困らせるっていう。まさに、この環境でしかできない展開でとても面白く感じました。
さらに、観客の皆さんも、チャットで盛り上がれることが新鮮で。舞台で狂言を見るとなれば、見慣れていないお客さんは「今のセリフ、わからなかった」と疑問が出ても、そのまま見続けるしかない。でも、YouTube狂言では「今の、どういう意味ですか?」と書き込むと、よく知っている人が答えてくれるんです。しまいには、演目に出ていない狂言師が答えたり、狂言師仲間が「今、(演じている人が)間違えました」とツッコミを書き込んだりして(笑)。やる側にとってはもちろん、見る側にも新しい伝統芸能の楽しみ方が生まれていたんですよね。
私もゲスト出演させてもらったのですが、話の流れで「『YouTubeで逢いましょう!』のTシャツつくってよ」っていうことになって。学生と一緒にデザインをして、販売することが決まったんです。私の中ではTシャツが視聴者の方に届いたら終わりではなく、皆さんがそれを着て出歩くところまでが重要。Tシャツのデザインではあるけれど、ある意味、一連の流れを含めアートだとも思ったんです。SNS、YouTubeというオンラインから始まったものが、最後は実際に着て街中に出ていくとオフラインで拡散される。その多重的な広がり方が、とても面白いなと感じました。そして、気づけば、一連の流れが結構大きなプロジェクトになっていたんです。自分が何か意図的に仕掛けたわけではなく、いろんなことが組み合わさり、目の前で起こることを面白がってどんどん転がしていった結果、今までにはない伝統芸能の形ができた。こういった思いもよらないアートの繋がり、広がりが今後も生まれるといいなと自分でも期待しています。
街にアートが出ていくというのは、私自身も大事にしているところ。映画を見終わって、外に出た時にちょっと目線が変わっていることってありませんか? 例えば......ブルース・リーの映画を見てきた男性が、すべからくブルース・リーになってしまうのもそう。『アナと雪の女王』が流行っていた頃に、隣のトイレから4歳くらいの女の子が女王になり切って歌いながら出てきたのを目撃したのですが(笑)、それも目線の変化のひとつと言えるかもしれません。同じように、サントリー美術館で《誰か袖屏風》を見て家に戻った時に、いつもは雑多で残念に思っていた自分の部屋が、実は素敵な空間だと感じるかもしれない。そうやって美しいと思っていなかった景色が、美しく見えたり、日常にある当たり前の風景に気づけたりというのも美術作品の面白さのひとつ。そういう意味では、以前にやった『日本°画屏風祭』のような街全体を巻き込んだ、回遊式の展覧会を東京のような都心でいつかやれたらおもしろいなと思います。
取材を終えて......
普段、多くの人が思いつきもしないであろう発想や、何げない風景を見逃さない力は、実はとても純粋で真っすぐな視点から生まれるのだと感じさせられました。そして、人とのつながりを大切にしながら、目の前にあることを面白がる山本さん。その思考から発せられるお話はユーモアにあふれ、笑いにあふれたインタビューとなりました。(text_akiko miyaura)