目線を変えることで見えてくる美しさ。
私の作品は、《マリオ&ルイージ図屏風》など、日本の古典絵画と現代風俗を融合させた"ニッポン画"を表現のベースとしていますが、日本文化に興味を持ったきっかけは、大学受験当時に訪れた沖縄での出会いでした。私は団塊ジュニアとよばれる世代で、美大に入ろうと思うと倍率10倍は当たり前、東京芸大に至っては50倍という時代。なかなか受験がうまくいかず、三浪することになってしまったんです。若い時に道が開けないと、やはり精神的にも迷宮入りしていく。そんな中、旅に出たのですが、沖縄県立芸大を受ける際に1ヶ月前に現地入りして、テントを背負いながら、沖縄を一周泊まり歩いた末に受験をするという謎の行動をしたんです(笑)。
その中で、いろいろと感じたことがありました。沖縄には、本土とは違う歴史文化がある。その歴史や文化に、同世代だった若者たちがリスペクトを持っていることに刺激を受けたんです。ちょうど沖縄音楽を現代的にアレンジしたバンドなんかが出てきた時期で、とても自然に、自分たちの文化として誇りを持ってやっている姿がすごく新鮮でした。翻って、本土に住む私らは自分たちの文化を知っているんだろうかと省みたんです。そこからですね、日本文化に興味を持ち始めたのは。
もともとは現代美術をやりたくて美大に行こうとしていたのですが、沖縄での経験もあって受験前に日本の伝統文化もいいなと思い始め......。結果、大学では日本画を専攻することにしたんです。でも、実際に学校で教わる日本画は私がやりたいこととは少し違っていて。残念ながら真面目な学生ではなくなり(笑)、大学のほとんどの時間を能楽の部活に費やすことになるんです。結果として当時の部活動が今に生きていますし、絵だけではない伝統文化に触れられたこと、"生きた日本文化"を知れたことは、私にとって大きな経験になりました。
能楽には、装束などの生活の中で使われる生きた美術が登場するんです。例えば屏風や掛け軸、扇子なども含め、家の中で使う形式でつくられている。そこに絵を描くことで、自然と美術を日常生活に取り込めていたんですね。もちろん、西洋絵画も家の中に飾るものですが、もともとは窓の代わり。ひとつの視点から一瞬を切り取る、ある種、写真を目指した表現ともいえるんです。一方、日本の絵画ははなから、それをやる気がないんですよ。だって、《四季山水図屏風》なんて一瞬どころか、4つの季節がひとつの作品に収まっているじゃないですか(笑)。もっと言えば、屏風をどう置くかは持ち主次第。開閉する屏風の角度によっても、座る場所によっても絵の見え方が変わるんです。ひとつの視点から見ることができないからこそ、体感的に感じるしかない。西洋絵画と日本画は、そもそも持っている空間性や時制が、全然違うんです。
私が制作において大切にしている物語性も、能楽から多分に影響を受けていますが、もうひとつ、幼い頃の経験も関わっているように思います。うちの父親がちょっと変わった人間で(笑)、生まれ育った熊本の自宅で超私的な勉強会を開いていたんですよ。メンバーみんなで毎月1冊本を選んで読み、どんなことが書かれていたかを語り合うだけの会なのですが、今考えると、すごく豪華なメンバーの集まりで。作家の石牟礼道子さんや、歴史家の渡辺京二先生、詩人の伊藤比呂美さんなんかがいらっしゃったんです。勉強会後には必ず飲み会が始まるので、小さい頃はそこに混じって「太郎ちゃん、太郎ちゃん」とかわいがってもらいました。大きくなってからは、何度か会にお邪魔したりもして。そういった環境の中で育ったのものあり、昔からどこか物語に興味はあったのだと思います。
実際に私の作品の中にあるストーリーは、最初につくり込むものではなく、最終的に立ち上がるもの。最初はその地へ出向いて現地の人と話をするところが始まるのですが、恥ずかしながら、いろんな地方、地域には知らないことがいっぱいあるんですよ。住んでいる人は誰もが知るお話、その地域にしか伝わっていないことに多々出会います。そのすべてを追っかけられるわけではないのですが、自分なりに突き詰めていくと自然とストーリーができあがっていくんです。
日本文化は、ある意味、多様性を許容し、かつ許容の仕方が非常に面白いなと感じます。ハロウィンやクリスマスを取り入れてみたり、各国の料理が当たり前に食卓に並んでいたり。小さな子が「好きな食べ物はハンバーグ」と言っても、違和感がないじゃないですか。ハロウィンだって、もとは違う意味を持った祭りで子どもが主役のはずなのに、日本ではむしろ大人が楽しんでいる(笑)。そうやって、いろんな文化を受け入れて、日本流にちょっとだけアレンジしてしまうのが面白いなと思うんです。でも、実は近代に限った話ではないんですよね。文字として漢字を取れ入れながらも、ひらがなやカタカナをつくったり、漢文読みでなく独自の読み方をしたり。例えるなら日本という"OS"にデータを入れると、文字化けを起こすんだけれども、「それでいいじゃん」と文字化けのまま、みんなが受け入れているようなイメージ。多様性を認めているようで、認めていないそのバランスが不思議で興味深いなと思います。
実は父親の仕事の関係で、小学校に上がる前の2年をアメリカで、小学4年生の冬からの1年をスウェーデンで過ごしたんです。ただ、その環境が今の自分に関係しているかが分からないんですよね。というのも、うちは4人兄弟なのですが、こういった日本的な美術の活動をしているのは私ひとり。だから、子どもの頃の海外経験が特段影響していると言えないのかなと、自分では分析していて。もし、何か影響しているとするなら、慣れ親しんだ人や場所と別れなければならないという感覚が、常にどこかにあることかもしれません。
日本で普通に幼稚園に通っていた子どもが、ある日、何も分からないままアメリカに連れて行かれ、「これで半分アメリカ人だ」くらいの気持ちでいたら、また日本に連れ戻されて。やっと日本に慣れた頃に、今度は「スウェーデンに行くぞ」と言われたという(笑)。今のようにインターネットも身近でなく、小学生だからエアメールも書けないので、住む場所が変われば、仲間や街とも別れなければならなかった。自分で思うに、本質的には地方や地域に関わったり、コミュニティにどっぷり浸ったりするタイプだと感じるんです。でも、どこか一歩引かざるを得ない環境で育ってきた。だからこそ、作品を通して、人や地域と関わっていきたいという思いがだんだんと強くなっていたのかなと思います。
人や地域と関わるプロジェクトが初めて形になったのは、2006年に京都で開催した『日本°画屏風祭』でした。例年、7月は祇園祭の季節。1ヶ月に渡り、さまざまな祭礼や行事が行われるのですが、山鉾巡行の頃になると鉾町の人たちが屏風や掛け軸、花器といった各家のお宝を外に出して自慢するという風習があるんですよ。町家の一番よく見えるところに、美術館にあってもおかしくないような美術品が平気で並ぶ。それこそ"生きた美術"が本来あるべき日常の中に置かれ、街の雰囲気と一緒に楽しめるんです。もともと見る側として楽しんでいたのですが、これを"山本太郎版"でやりたいと思ったのが『日本°画屏風祭』のきっかけでした。ただ、やはり町の方と若いアーティストがいきなりつながるのは難しかった。なので当時、お手伝いしてくださった方とお寺や着物屋さん、ギャラリーやケンタッキーなどを1軒ずつ回り、交渉して作品を展示させてもらいました。その時に、人と関わりながら作品ではない何かが立ち上がっていく面白さを強く感じたんです。その後も秋田の美術大学に勤めていたご縁で、「KAMIKOANIプロジェクト秋田」や「ネオ・クラシック!カクノダテ」など秋田各地の地域の芸術祭を企画したり、地域の方と交流するイベントをしたりする中で、作品づくりとはまた違った魅力にどんどん惹かれていきました。