間違っても、やらかしても「いろいろあるよね」と思った方が楽しい。
ゆるくて、シュールなサブカル的マインドを持ち続けながら、広い層に向けて日々漫画を発信しているしりあがり寿さん。国立新美術館で開催予定の『古典×現代2020─時空を超える日本のアート』では、あまりにも有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景」のパロディ『ちょっと可笑しなほぼ三十六景』シリーズを発表します。今回の作品に限らず、ちょっと可笑しくてじわじわくる、それでいて油断しているとスパッと斬り込むような作風は、どのようにして生まれたのでしょう。パロディや北斎への思いから、ギャグ漫画とアートの関係、そして昨今の社会情勢について、縦横無尽に語ります。
3.11を経て『あの日からのマンガ』を描いたけど、それ以前から日本はいろんな意味でずるずるダメになってきていた感はあります。だから3.11がとどめかなと思ったんだけど、その後も結構しぶとく頑張ってきた。でも今回の新型コロナウイルスで、いよいよやばい気がします。3.11の時は、足元の地面がいきなりガクッとなくなって、日常が断絶したようなショックがあったけど、今回は一気になくなるっていうより、足元の砂がもろく崩れていくような感じがあって、それはそれで相当やばい。これからもおそらく日本は頑張り続けるんだろうけど、経済的ダメージはかなりのものでしょうね。
『あの日からのマンガ』
そこは逆に北斎に学ぶっていうとおかしいけど、北斎が亡くなってすぐだけど、その頃も日本でコレラが流行ったんですよね。当時は他にも流行り病はいくらでもあっただろうし、生きる死ぬっていうことがもっと身近だったと思うんです。なのに、おたおたしないであんなに膨大に描いていた。だからまあ、昔の人ができたのだから、オレたちもできるはずだよね。
今回の展示でいったら、鴻池朋子さんの《皮緞帳》という作品は、日本刀と、ぶら下がった皮が展示されているんだけど、そもそも刀なんて人を殺す道具だもんね。そこに剥がれた皮があったりして、生きるとか死ぬっていうことから美みたいなものが出てくるわけじゃないですか。こういう作品を見ると、生きたり死んだりすることをもっと身近に感じないといけないって思うよね。自分たちは、どこか別の世界のことのように思っちゃってるけど、生死をもう少し身近に感じて、それでもなお描かざるを得ないものを描くべき。あれ......、ちょっと真面目になってきちゃったぞ(笑)。
日本なんかは今まで特に、よくわからないけど未来には理想的な正解みたいなものがあって、こんなふうに紆余曲折しても、頑張っていたらエスカレーターに乗るみたいに自然とそこへ行けるんだろうなって信じていたところがありますよね。だけど、どっかで変な大統領が出てきたり、民主主義のはずなのに、実際は独裁のほうが多いんじゃないかって思ってしまう各国の状況とかを見ていると、物事はそう簡単ではない。だから本当にもう一回、自分自身に戻るしかない。どっかの誰かが答えを与えてくれることに期待せず、自分が本当にやりたいこととか、いいと思うことの方に進んでみる。その過程ではきっと、摩擦がいっぱいあると思うんです。だけど仲良くばかりしていたらもうダメで、摩擦とかケンカを始めないといけない気がします。僕はもう先が短いから仲良くやるけどね(笑)。若い人は摩擦をして、ケンカして、抗って、残っていかないと。
表現の自由とか何とかっていうけど、たしかにアイデアを出すのは自由だけど、そのアイデアは全部採用されるわけではなく、淘汰されるもの。その淘汰の仕方が、今はぬるい感じがする。アイデアを出すのは絶対的に自由だし、とにかく自由にものを言うべきだと思うんだけど、要するに本当にいいものだけが残っていくための熾烈な競争とか淘汰が、ちゃんとどこかでできてるのか心配なんです。もちろん熾烈ならいいってもんじゃないけど、適切な競争や淘汰を経ているのかなって。そういうふうに思うこと、ないですか? コンペで「なんでこれが!? 」と思うようなものが選ばれて、きっと大人の事情なんだろうなと勝手に納得してしまったりとか。選挙から入試から就活からみんなそうなんだけど、いろんなものがきちんと選ばれずに、予定調和的になっちゃってる。もっとたくましく戦って、自分の生きる道を勝ち取ってほしいですね。
世界中で好きな都市をあげるとしたら、僕はやっぱり東京です。台南も好きだけど。おいしいものがいっぱいあるから。台南の街というか、屋台が好き(笑)。そんなにいろいろ行ってないけど、アフリカなんかも大地から人がニョキニョキ生えている感じが面白いですよね。あの力強さって何なんだろう。もしかしたらアスファルトで覆っちゃうと、人ってダメなのかもね。人も大地から養分をもらっているのかもしれないって、ああいうところに行くと思います。
東京が好きなのは、知ってる人がいっぱいいるし、おいしいものもいっぱいあるし、安全だから。六本木も好きですよ。昔、会社に勤めていた頃、「ハートランドビール」の仕事をしていたんです。今は小さくなっちゃったけどテレビ朝日の辺りに毛利家の庭園があって、そこでビアホールとかもやっていたんですけど、いろんなお店が隠れ家みたいに出ては消えていった。当時の六本木は特にそうだけど、ああいう文化は面白いですよね。今日はこっちのお店、明日はあっちのお店ってふらふらして、酔っ払って街を歩いてても平気だしね。最近の六本木は立派になりすぎて、あまり来ないんだよね。自分はひがみ症なので、立派なものを見ると気圧されちゃうというか、疎外感を抱いてしまうんです。だからもっとしょうもないところの方が落ち着くんだけど、頑張ってもっと来ようと思います(笑)。
会社員時代はコマーシャルとかをつくっていたんだけど、コマーシャルってほしくないものまでほしがらせないといけないじゃない? 極端な話、本当は必要のないものまでほしがらせて、それがないと不幸せくらいに思わせるのが、コマーシャルじゃないですか。そういう罪な仕事をしていたんだけど、もっとみんな、ほしくないものはほしくないし、本当にほしいものだけをほしいって言ったほうがいいんじゃないかな。僕も随分勝手なこと言ってるけど。
予算と規模の制約がなかったら、やってみたいのは飲み屋です。ハートランドのビアホールも、ビールが飲めるディズニーランドみたいな場所にしたいよねって話をしていたんです。お酒の力を借りながら、夢なのか現実なのかわかんないような空間をつくりたい。毎年「さるフェス」っていう300~400人規模のイベントを新宿Loftでやってるんだけど、イメージはこれのもっとすごい版。ビルを全部借り切って、ドアを開けたらそこに何があるのか誰もわかんないような驚きがあったりして、ネットでは絶対に経験できないようなこと。実は前に、ミッドタウンで似たようなのをやったことがあるんだよね。日本文化デザイン会議の総会みたいな集まりで、「しりあがりさん、やりたいことやっていいよ」って言われたから、こっちで漫画の朗読をやって、こっちでデスメタルをやってっていうのを企画したんだけど、ワンフロアだとさすがに無理があった。だって、向こうでやってることが見えるんだもん。音もうるさいし(笑)。でもお金があったら、絶対にできると思うんだよね。ぜひまた六本木でやらせてください。
さるフェス
ユーモアとひとことでいっても、「笑われる」のと「笑かす」のって違うじゃないですか。笑かすって結構敷居が高くてさ、こいつ、笑かしにかかってるなってわかった途端、人って身構えちゃうんです。それを越えて笑かすのは、相当の技術が必要だし、笑かしにかかって失敗すると相当みっともないんだよね。笑いはタイミングも含め、いろいろデリケートだから、無理につくろうとしない方が場合によってはよかったりもする。だからその高いハードルを超えて笑かしてるコメディアンや落語家とか、本当にすごい! 僕なんかむしろ、笑われちゃう方が簡単だと思って要は隙っていうか、間違いっていうか、やらかしてる感で生きてきちゃったんだよね。まあ、そっちはそっちでイジメや蔑みと地続きだし難しいねー。
一方笑いは見る方の問題でもあって、同じものを見てもバカだねーってユーモアを感じる人と、けしからんって思う人とがいるわけですよ。でもって「けしからん」と思われるものは「悪いもの」と消しにかかる。「こうじゃないとダメ! 」って思ってると、ユーモアはどうしても少なくなってしまう。見る方がユーモアを感じるには、寛容になること。誰か「けしからん笑い」とは社会に有用である、なんて論文書いてくれないかな。
取材を終えて......
取材が行われたのは、新型コロナウイルスの影響で展覧会のスタートが延期されている最中。大好きなパロディについて語る時も、先が見えない現状について語る時も、しりあがりさんの柔らかな口調が印象的でした。真面目な話題になりかけると、「芸風が違ってきたぞ(笑)」とはぐらかす感じも、まさに作風(芸風?)と一致。「わからないことに素直すぎる」と謙遜するものの、物事を俯瞰して、ゆるさの中に鋭さを忍ばせる様はお見事。これからも世の中の目として、「ちょっと可笑しな」ものの見方で楽しませてください。(text_ikuko hyodo)