間違っても、やらかしても「いろいろあるよね」と思った方が楽しい。
ゆるくて、シュールなサブカル的マインドを持ち続けながら、広い層に向けて日々漫画を発信しているしりあがり寿さん。国立新美術館で開催予定の『古典×現代2020─時空を超える日本のアート』では、あまりにも有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景」のパロディ『ちょっと可笑しなほぼ三十六景』シリーズを発表します。今回の作品に限らず、ちょっと可笑しくてじわじわくる、それでいて油断しているとスパッと斬り込むような作風は、どのようにして生まれたのでしょう。パロディや北斎への思いから、ギャグ漫画とアートの関係、そして昨今の社会情勢について、縦横無尽に語ります。
若い頃からパロディが大好きだったんです。デビューしたての頃は、他人の絵柄を真似した漫画ばかり描いて、毎回絵柄が違ってもその人らしさが残るんだったら、それが本当の個性なんだって偉そうなことを言ってたくらい。世代的にもビックリハウスやモンティ・パイソンの影響を受けたんだけど、北斎と遊ばせてくれるっていうから、これはもうパロディだろうと思ってね。だってパロディって、元を知らないと成立しないじゃないですか。その点、北斎の絵は世界中で知られているでしょ。ルノワールとどっちが有名だよってくらい......そんなことはないかな(笑)。まあとにかく、そのくらい知られている作品のパロディができる。しかも今は、便利なフォトショップもあるってことでやってみたら、本当に面白くてね。最初は10枚くらいしか制作しないつもりだったんだけど、全部やろうと思ったら、36枚じゃなくて46枚もあってびっくりしました。北斎の絵は、おそらくパロディにしやすいんでしょうね。造形的にどれも印象に残るから、ひっくり返したくなる対象みたいなのがはっきりしている。あとはやっぱり北斎漫画を見ると、あのエネルギーは参考になります。
もともと古典美術に関しては、現実的なものよりファンタジーというか、不思議なもののほうが好きでした。日本だったら妖怪みたいなやつとかね。日本の妖怪って愛嬌があって、そんなに怖くないじゃないですか。北斎は、人を面白がらせてやろう、驚かせてやろうっていうサービス精神がありますよね。でっかいだるまの絵なんて、まさにそう。しかもものの見方がユーモアに溢れている。お侍だからといって描く方がかしこまるわけでもなく、いかにも偉そうに描いたりして、あるがままに飄々ととらえているでしょ。あの軽さというか、こだわりのなさは、すごく好きです。
古典×現代2000―時空を超える日本のアート
『ちょっと可笑しなほぼ三十六景』というタイトルにしたのは、「ちょっとだけ」変えたかったから。元の絵をいっぱい変えたら何とでもなっちゃうけど、1箇所を変えるだけで全然違う意味になったり、どこを変えたのかわからないくらいの方がかっこいいと思うんですよね。柔道とかでもさ、気づかないくらいの技をふっとかけて、相手がころんと転んだりするのってかっこいいじゃないですか。たとえば、《太陽から見た地球》は、本当にちょっと変えただけ。色を変えて富士山を地球にしただけで、いきなり引いた感じがする。神奈川県から太陽系まで行っちゃった。
《太陽から見た地球》
《ー葛飾北斎ー天地創造 from 四畳半》というアニメーションもつくったのですが、北斎は最後まで四畳半の空間で絵を描いていた人。四畳半って、ほんとに狭いですよ。だけどそこで描いているものは、とてつもなく広くて巨大で、森羅万象をとらえていた。それが北斎のすごさだし、あるいは描くっていうことのとてもいい例だと思うんです。四畳半で筆一本あれば、いくら巨大なものでも表現できちゃうっていうね。北斎はきっとグルメでもなかっただろうし、ファッションも気を使ってなさそうだし、片付けすら面倒くさくてどんどん引っ越してたくらいでしょ。旅行は好きだったみたいだけど、本当に描くことだけをしていた。筆と紙さえ与えておけばあんなことができると思うと、今が贅沢すぎるというか、ちょっと見習わないといけない気がしますよね。だからアニメでは、四畳半っていうミニマムなところから、いかに巨大なものをつくったかを表現したかったんです。僕にしては、ちょっとわかりやすすぎたかな(笑)。
《ー葛飾北斎ー天地創造 from 四畳半》
ひとことでギャグ漫画といっても、いろいろありますよね。アートはもっと大きな枠組みだけど、ギャグとアートはちょっとだけ接するところがある気がします。常識を覆す驚きというか、既成概念ではとらえられない何かを世の中に提示するっていう部分で、一瞬重なる気がしてそこが好きなのかな。人を元気づけたり、慰めたりするような温かいギャグ漫画もあるけど、僕はもうちょっと「そんなのありかよ」とか「そこでこう来るか」みたいなことに重きを置いていたりします。同じようにアートも、宮殿に飾るような豪華なものもあるけれど、「え、何これ?」と常識を覆すようなものもある。後者の部分で重なればいいなと思っています。
いずれにしても一番大切なのは、答えはひとつじゃないってこと。今回の展示は、現代と古典のいろんな組み合わせがありますけど、別にそれが正解なわけではないじゃないですか。いろんな可能性のうちのひとつをたまたま提示しているだけで、ほかにもこの人とこの作品を組ませたらもっと面白いかもしれないっていう答えが、いくつもあるはず。だから日本美術も単純に答えはこうっていうんじゃなくて、いろんなつながりや共通点を想像すると面白いと思います。
もし自分が人間の体のうち、どこかひとつのパーツになるとしたら、行動力もないし、臆病だから、足とか手とか頭でもない。そう考えていくと、やっぱり目かなと思うんです。とにかく世の中を見て、見えるものを描きたい。だとしたら人と同じではなく、裏から見るとか斜めから見るとか、ちょっと違う見方をしたいじゃないですか。そうじゃないと、世の中で目の役割を果たせないから。それで結果的に、こういう作風になったんだと思うんです。自分の性格が違ったら、メッセージをガンガン言う人になったかもしれないし、頭を使って世の中を分析する人になったかもしれないし、もっと手足を使って行動力のある人になったかもしれない。
新聞で『地球防衛家のヒトビト』という漫画を連載していますが、描き方で意識していることがあるとすれば、わかんないことはわかんないままにしておくっていうことですかね。メディアで何か発信する以上、嘘をついたらいけない。だから自分が信じて、間違いないと思ったことじゃないと、はっきり言えないんですよ。そう思うと僕の漫画って本当にわかんないだらけで、ふんわりしててやばいんだよね(笑)。もうちょっと鋭く切り込めよ自分! って思うし、正直そこはもの足りない。バシッとものを言える人が羨ましかったりもするけど、人はそれぞれ得手不得手があるからね。わかるのが得意な人もいれば、わかんないのを出すのが得意な人もいる。世の中はその組み合わせでできてると思えば、まあ自分ができることをやるしかないのかな。わからないことに素直すぎる感じもするんだけど。
『地球防衛家のヒトビト』
新聞の漫画は結構難しくてね。たくさんの人が読むし、しかも別に笑いたくて新聞を読むわけじゃないからね。読者に「この笑いがわかるか!? 」なんて挑むものはなかなか描けない。それにもうそこら辺の感覚は、商業誌で描いている若い人にはかなわないですよ。僕がやっているギャグ漫画なんかは、昨日は笑ったけど今日はもう笑えないみたいな消耗していく笑いなので、落語みたいに蓄積してつくり上げていく笑いとは種類が違う。消耗していく笑いは、持って生まれたものを削るようなことだから、そりゃあ若い人のほうがいっぱいある。僕はもうちょっとしか残っていないんだよね(笑)。落語みたいに、もう少し技術の方も頑張ればよかったかな。