ものづくりもデザインも、多数決が一番面白くない。
絵本『えんとつ町のプペル』の設定は、朝から晩まで煙がモクモクとあがっている町で、その町の人は空を知らない、星を知らない。そんな中、主人公たちが、あの煙の向こうには何かがあるんじゃないかと空を見上げるわけですが、そうすると、町のみんなに、あるわけがないじゃないか、と攻撃される。これは言ってしまえば、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれるという現代社会の縮図ですね。
えんとつ町のプペル
現代社会というか、具体的に言えば、SNSが一番近いかもしれないんですが、今のSNSの文化をどう落とし込んだらファンタジーになるかを考えながら、「えんとつ町」をつくりました。物語を考えた8年前は、もうちょっと希望があった気がするんですけど、今の日本は本当に「えんとつ町」になってしまった感じがします。誰も希望を持っていないし、「どうにかなる」とも、もはや、あまり思っていない。だから、『えんとつ町のプペル』の映画が公開される時期としては、今はとてもいいなと(笑)。
希望は必要だな、と思うんです。「勘違い」をしてようやく踏み切れることってあるので。それこそ、戦後、日本が頑張って、世界のリーダーになるぞ、なれるぞって勘違いしていた時って、すごい勢いだったと思うんですね。いける、いけるかもしれないと思った瞬間は、その国や地域が貧しくても安定していて、「どうせ無理」の空気が充満している時って、ろくでもないことしか起こらない。揚げ足を取り合うし、人を非難することしか娯楽がない。それが今ですよね。
その状況を少しでも打破したいと思っているんですけど、そのためには「結果で示す」っていうのが一番いいと思います。何年か前に、俺は「ディスニーを超える!」って宣言したら、そりゃ無理だよ、何言ってんの? ってみんなに言われました。もちろん相手が偉大すぎることは確かですが、映画版『えんとつ町のプペル』は、意外と一矢報いることができるかもしれなくて。もし、興行収入とか動員数とかで、同時期に公開されているディズニー映画を上回ることができたら、その瞬間に、おやっ? ってなる。あれ? 頑張れば、いけんの? みたいな。
絵本を出すためにクラウドファンディングをやったり、売るためにウェブで全ページを公開したりした時、みなさんからいろいろと言われたんですが、基本的には、奇をてらうことはやってないです。むしろ、僕がやっていることは王道で。変化球じゃなくて、王道が好きですね。
クラウドファンディングをはじめたのは、確か2013年で、その時はすごいバッシングされましたね。宗教かよ、とか、詐欺かよ、とか、炎上して、わーっと叩かれた。でも、クラウドファンディングって、その1年も2年も前からアメリカにあったし、ただ日本に入っていなかっただけで、普通に「あるもの」を使っただけなんです。絵本の無料公開にしたって、王道ですよ。スーパーで試食ってあるじゃないですか。食べてみて、よかったら買ってね、みたいな。あれとまったく一緒です。本屋さんの立ち読みだって、1回読んで面白かったら買ってね、っていう。それをインターネットでやっただけの話で、普通に考えたら、そっちのほうがいいよね、っていうことをやっているだけです。
多くのお母さんは結果が出ている絵本しか買わないし、子どもの頃に読んでもらって面白かった絵本を、自分の子どもにも買い与える。つまり、ネタバレしているものにしか反応していない。その事実があるんだから、絵本を売ることを目的にするんだったら、まず、全国のお母さんにネタバレしたほうが絶対にいい。それで売れたほうが、出版社も嬉しいし、クリエイターさんに落ちるお金も増えるし、みんながいいはずなのに、それも、すっごい炎上しましたね。まあ、僕の言い方がよくなかったのかもしれないですが......。
炎上って、決して気持ちのいいことじゃないですよ。特に絵本の無料公開は、炎上しちゃいけない案件なんで。だって、その方法の方が、みんなに作品が届くんだから。「もう、絵本の売り方のスタンダートって、無料公開だよね」となった時に、批判しちゃった人たちは、しばらくその手は打てないわけですよね。本来は、絵本のつくり手や売り手、その人たちごと幸せにしようと思ってやっているのに、批判することで自分たちの道を狭めちゃってるから、炎上に対しては寂しい気持ちの方が強いし、批判しちゃダメだって! って思います。
ただ、そこは最近、勉強したことでもあって、批判ってしちゃうものなんですよね。なんでしちゃうのかと考えて思うのは、「知らない」ってことと「嫌い」っていう感情は、極めて近い位置にあるなって。人が何かを嫌うときの理由のほとんどは、「知らない」にある。理屈で説明すれば、絵本の無料公開なんて、どう考えたってプラスでしかないのに、その手段を「知らない」から、なんか嫌い! って反応しちゃう。
僕はあくまでもみんなを楽しませたいと思ってやっているので、あまり「知らない」ことはやっちゃダメなんだっていうふうに、最近はなりました。で、出した結論というか、やり方としては、最初から世間にはアプローチしないようにしています。自分が面白いと思うことは、オンラインサロンの中でしかやらないようにしていて、そこで圧倒的に、結果が出たものを世間に出す、という流れです。結果が出た途端に、世間はなびくので。それ以前にどれだけ説明しても、みんなキー!! ってなってるから聞いてもらえないし、そのモードの時に説き伏せようとしても意味がないと分かって、じゃあ、もう、分かりやすく、圧倒的な結果を出す。しかも数字で出す。それでようやく、あいつが言っていることって、もしかしたら、正しいんじゃないか? って、聞いてもらえる。その方法に変えてから、あまり炎上もしなくなりました。
僕が主宰するオンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』には、3万8,000人の会員がいるんですが、このオンラインサロンの存在は、僕にとって、めちゃくちゃ大きいですね。面白いことをしようと思ったら、ああいうクローズドなコミュニティ、ある種の鎖国性みたいなものは絶対に必要だなと感じています。僕のオンラインサロンで決めているのは、何かを決めるときに、多数決は絶対にやめよう、ということ。会費の総額は年間4億円くらいになりますけど、最終的に何に使うかは僕が決める。だから、結果はすべて僕の責任。
西野亮廣エンタメ研究所
責任逃れで一番楽なのが多数決なんです。多数決にさえしておけば、お前らが決めたんだぞ、と言えるんで、責任の所在が分からなくなる。でもそれって、リーダーとして一番やっちゃダメだと思います。一方で、リーダーの暴走の歴史もありますから、そこは注意しなきゃいけないんですが、ものづくりとかデザインの範囲でいえば、「みんなで決める」っていう多数決が一番面白くないのは確かです。個人の圧倒的なエゴでしか、未来は切り拓けない。僕はそう思っていて、そのエゴを許してくれる環境をつくるしかないし、それを誰に任せるか、ですよね。
今の日本で「太陽の塔」みたいなものをつくろうと思っても無理だと思うんです。だいたい横槍が入って、税金をなんてものに使うんだ、と叩かれて、企画が頓挫しちゃう。みんなで会議なんかしてつくっても、どこにでもあるような、つまらないものしか出来上がらない。やっぱり誰か1人の、圧倒的な結果を出せる人に任せて、その1人の熱狂に周りがついていくようなやり方じゃないと。有識者が集まって議論してたら「太陽の塔」はできません。
太陽の塔
(撮影協力:六本木ヒルズ 六本木けやき坂通り)