遠い未来ではなく、ほんの少し先の社会を描く。
現代美術を中心とした活動を展開し、人工知能、都市計画、教育、バイオテクノロジーなどまでにその領域を広げるTHE EUGENE Studio創設者、寒川裕人(Eugene Kangawa)。国立新美術館で開催中の『カルティエ、時の結晶』では、ノンキャプションシステムというまったく新しい作品解説システムを発案しています。自身の展覧会での経験から、作品と鑑賞者の理想的なあり方を追求したこのシステムに込めた思いとは。若き現代美術家が考えるアートの可能性とともに伺いました。
『カルティエ、時の結晶』ではノンキャプションシステムを提供する形で、展示協力をしています。ここで意図したことを説明するため、過去に発表した作品《Series of White Painting》と《漆黒能》の話から始めましょう。
カルティエ、時の結晶
ノンキャプションシステム
《Series of White Painting》は、一見何も描かれていない真っ白なキャンバスの絵画ですが、世界中の様々な場所で色々な方にキャンバス上に接吻をしてもらっています。例えば僕はこの作品を"最小限の建築"と捉えていて、アメリカの『オクトーバー』(美術理論誌)などの批評家もこの作品を「愛と記憶にまつわる移動式の礼拝建築」と書いています。絵画は現代において、生活からある程度切り離されて、美術館やギャラリーなどに置かれるものですよね。しかしかつては、例えばキリストや聖母などが描かれたイコンは、時に一緒に寝たりもするような、生活の循環の中に確実に存在したもので、精神的にも身体的にも密接なものでした。《White Painting》はこうしたイコンのあり方と、枠組みや行為自体はよく似ているのです。
《Series of White Painting》
ロシア正教の礼拝堂や教会には、中央にイコンがあり、それらを囲う壁、パーテーションがあり、さらに外側を建築が囲っている形式があります。《White Painting》が最小限の建築だと話したのは、例えば都市において行ったときに、大きな囲いがなくともキャンバスと人という要素をもって、そこに質量のない無形の建築が登場して、ひとりのためのひとつの場が成立していることに気付いたからです。
絵画の限界に関する議論はこれまで幾度となく繰り返されていますが、僕としては少し視点を変えて見ています。人間の営みの中に存在するなにかということに、もう一度可能性を見い出せるのではないかと思っているのです。その他にも《White Painting》は、国家、宗教、種族、組織などグローバルレベルの大きなニュース、そういった単位では一見強まっているように感じる分断――たとえばブレグジット、国境の壁、難民問題のような分断とは対照的に実在する、小さな単位での共同体の可能性を確認するものでもありました。
もうひとつ、《漆黒能》は、完全な暗闇で能を行うインスタレーションで、今年1月に国立新美術館で行いました。能楽師に聞いたところによると、今まで色々変化を加えた能は数多くあったものの、"真っ暗闇で能を執り行う"のは1,000年以上続く能の歴史の中でもその時が初めてだということでした。《漆黒能》はリサーチに3年ほどかけましたし、僕自身はリハーサルを通して面白さは実感していましたが、来られた方の中には「60年生きてきて、もっとも深遠な体験だった」と仰る方もいて、鑑賞者の反応は僕の予想を圧倒的に超えていくものでした。作品の面白いところは、作者の手を離れて、それぞれの人生と絡み合っていくというところにありますね。これは100年後、1,000年後を生きる人に対しても同じ。
《漆黒能》
《漆黒能》はある種の映像作品とも言えます。何も見えないゆえに鑑賞者の頭の中には何かしらの映像が再生されていたはずだからです。そこには鑑賞者分の映像があったといってもいい。イメージがないゆえに無限になる。その映像は各々の記憶に結びついていて、個人的な体験に関する記憶かもしれないし、土地にまつわるバナキュラー(=土着)な記憶かもしれない。この作品は知覚にまつわる身体的な作品に思われるかもしれませんが、そうではなく、想像力が喚起されて、歴史や記憶などにまつわるさまざまな個々の物語に到達していく――そうした側面が面白いと思っています。
この二つの作品に共通しているのは、そこに事実や実態はあるものの、完全には目にすることができないこと。これは作品ではなく、社会全体にいえることかもしれませんね。少なくとも今の私たちは、視覚ではほとんど何も見えていない。
話を戻すとして、これらの発表を通して、展覧会における作品と情報の関係を考えるようになりました。空間と作品の間に存在する、見えない情報をより深く意識するようになったのです。ものと情報という意味では、情報論に近いのかな。《White Painting》は、どのような人たちが、どんなふうに接吻したのか、キャンバスを見ただけでわかる人はいないでしょう。それと同じように、たとえば30年前のこの部屋のこの場所の状況を、正確に描ける人は今の技術では皆無。1時間前ですら知らない。把握するためには何かしらの情報が付与される必要があります。展覧会に目を向けてみると、それは作品の履歴やプロセスを付与することです。しかし、それらを証明するために空間に情報が存在するのは、本来の目的から逸脱している気がするのです。
あらゆる作品はどこまでが真実で、どこまでが編集されているのか、その境界はどれだけ作者がそのことに意識的であっても不透明ですよね。ドキュメンタリーでも制作者のディレクションが強く発生しているわけで、判別するのは難しい。もちろん展覧会も同様に編集作業が必ず発生しています。どのような展覧会でも、行うと決めた時点で編集が存在する。これは展覧会に限らず、主催者側がある情報を鑑賞者側に与えたければ、それらは容易に盛り込まれます。例えば作品のキャプションが大量にあったり、映像や写真が証拠として展示されることに繋がるのですが、作品はそういう意味でのわかりやすさを意図していないときもあるはずなのです。作品の空間に干渉しない外側の情報として成立させる方法があるのだろうとは考えていて。そういうことも考えていた時、『カルティエ、時の結晶』のお話がありました。
僕自身も驚いたのですが、カルティエのオブジェが持つ力はちょっと想像を超えていました。ジュエリーが設置された瞬間にその空間が収束していくのです。たとえばそれが、グレース・ケリーがかつて身につけたものなのかどうかは、鑑賞者の多くは判断できません。しかし隣にキャプション文字で長々と説明すれば、作品が持つ本来の力を阻害しかねない。人間の情報処理能力には限界があるので、雑音を生んでいく恐れもある。展覧会というのは、時間のコントロールを試行する技術です。つまり、どこに情報を配置して、鑑賞者が動き、思考する時間をいかに生み出せるか、その技術の追求にかかっているのだと思います。それは、ものと情報の距離と言い換えてもいいでしょう。
TOP画像:杉本博司《逆行時計》2018年 ミクストメディア(作家本人により逆行化され修復された1908年製造の時計[製造:フォンタナ・チェーザレ、ミラノ]) 個人蔵
会場構成:新素材研究所 © N.M.R.L./ Hiroshi Sugimoto + Tomoyuki Sakakida