生活と創作作品が一体化したとき、リアリティが生まれる。
誰も想像しなかった場所、カタチ、空間。一見、突飛に思えるが、実は何よりもその土地になじみ、その場所の魅力を引き出している――。そんな建築をつくり続けている石上純也さん。現在、パリのカルティエ現代美術財団で開催されている『Junya Ishigami, Freeing Architecture』でも高い評価を受け、9月まで会期が延長されたばかり。そんな石上さんに未来の都市がどうあるべきか、そして六本木がアート、デザインの街になっていくために何が必要かを聞きました。
現在、森美術館で開催されている『建築の日本展』に作品展示をしていたり、僕の事務所は六本木にあったりと、何かと縁のある六本木ですが、そもそも越してきたのは条件に合った物件がここにあったというのが理由。だから、この街にいるのは偶然といえば偶然なんです。でも、実際に拠点にしてみると、意外な発見がありました。思った以上に土地に起伏があったり、緑が多かったり、昔ながらの街区の構造が残っていたり。散歩していて楽しい場所なんです。それに、うちの事務所は海外の方も多いので、いろんな人種やカルチャーが混ざり合っている街という意味でも、なじんでいる感覚はあります。
建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの
あえて言うなら、首都高の高架がなければ、もっと明るいイメージになるんじゃないかなとは思います。やっぱり、六本木というと「ROPPONGI」と書かれた交差点の高架を思い浮かべるじゃないですか。現実的には難しいかもしれないですが、もしもあの高架がなく、太陽が遮られず日光に満ちていたら雰囲気がガラッと変わる気がするんです。と言いながら、高速を走っているときは気持ちいいんですけど(笑)。
東京の都市構造がほかの国と違うのは、成り立ちが地形に関係づけられている点だと思います。たとえば、六本木のあたりはもともと山の上だったというのもあって、昔からの屋敷が並ぶ住宅街であったり、谷の部分は古くからある商店町といった商業地域など、江戸時代から変わらない都市構造がある。一方、特にヨーロッパなどは地形ではなく、街区や建物の並び方で都市の構造ができあがっている。何が違うかというと、ヨーロッパの都市構造は、万が一、建物がなくなったら街の雰囲気のほとんどを失ってしまうのですが、日本は建物が変わっても地形は保たれるので、街自体の雰囲気は保たれるんですね。
そういうなかで、もともとある景色が残りつつ、同時に時代によって変わっていく人間の価値観とともに新しくなっていくことが必要です。そう考えるとランドスケープを生かした都市構造って、風景の中に歴史が刻まれていくということだと思うんです。だから、元々の地形がもつスケールと寄り添うように都市を更新していく必要がある。たとえば、東京には坂が多いですが、大きな建物がなかったときには、坂という巨大な地形がその地域のモニュメントやランドマークとしての役割を果たしていて、その影響から、昔から残る坂道にはその場所の雰囲気を伝える名称がそのまま残っていたりします。暗闇坂とか、けやき坂とか、なだれ坂とか。これだけ坂に名前がつく都市は世界にもほとんどないように思います。
そういう風景の記憶とともに街を考えていくのが、特に東京では重要な気がします。多くの古い建物は空襲や地震でなくなってしまったわけだけど、それでも、その場所にいまだ残る街の雰囲気はそこにあるランドスケープを残すことによって保たれていくように思うのです。だから、大きな再開発などを行うときには、そのあたりのことを考慮したうえで正しいスケールと、正しい地形の読み方とともに行っていくのがいいのかなって思っています。
都市をつくることと建物をつくること、ランドスケープをつくることなど、それらの間にそれぞれ明確な役割や境界を定めないで、人の住処を考えていくことが僕の中では重要です。都市計画があって、それに則って造成をして、その新しい地形をもとに建物を設計するというような明確なヒエラルキーや手順に縛られない手法を考えられるといいのではないでしょうか。
たとえば、まず建物をつくって、それに合わせるように、もっと環境が良くなるように地形を少しだけ変えて、そうすると既存の都市計画では考えられていなかったところが出てくるから、それももうちょっと見直して、今度はその新しい都市計画と環境をもとに建物をつくるとか。そういうことをスピーディに繰り返し行う。そうすると、それぞれの成り立ちが、複雑に絡み合いながら、街全体がおおらかに育っていく。もちろん、現在の法基準では相当難しいことですが、柔軟性を伴いながら、さまざまな階層からその場所の環境を維持しつつ、同時に変化させていくことが必要だと思うのです。
実際、テクノロジーが進化していくなか、複雑な情報処理を駆使して、システムをその都度変化させても成り立つような開発手法が、もしかしたら近い将来できるようになるのかもしれません。開発の規模やスピードがどんどん増していく現代にあって、未来の開発に必要なことは、その場所に備わる膨大な情報を細やかに奥深くまで掘り下げながら、そこに現代的価値観を与えていくことです。ただ単に、大規模にハイスピードに進めるだけのような開発手法は、中身が希薄な巨大な空洞を都市の中に挿入しているように感じることがあります。そういう感覚が、極めて20世紀的な過去の手法とさえ思うことがあります。その場所の成り立ちをかき消して、大きく変えるのではなく、過去も未来も飛び越えて、それらさまざまな要素や情報や環境をつなぎ合わせ、その場所に複雑な関係性を与えていくことがこれから都市開発のあり方ではないでしょうか。
誰とでもつながることができ、どこへでも簡単に行けるようになりつつある時代の中で、その場所が持つ特殊性はとても重要になりつつあるように思います。グローバリゼーションの初期段階においては、世界中のすべての街が同じ価値観で、同じような見た目の近代的な大きなピカピカのビルが立ち並ぶことを目指していたように思いますし、今でもそのような開発が続けられている例は世界中のいろいろな場所で見ることができますが、時代は、次のステージに移行しつつあるのではないでしょうか。
つながっている人たちが、自分が知らない風景の中にいることが伝わってきたら、やはり羨ましく思うもので、そこに行きたくなるということはとても重要なことです。そういうなかで、世界中がどこも同じような街並みになってしまったら、移動したいという欲求さえ生まれなくなってしまいます。移動することの理由は無限にあるかもしれませんが、見たことない場所、知らない場所に行きたいという欲求はその原動力としてとても大事なことだと思います。さまざまな企業を呼び込むためには、もしかしたら、近代的なビルがたくさん必要なのかもしれませんが、グローバリゼーションが行き渡った世界では、それだけでは人々の流動性は確保できなくなるように思います。
つまり、世界中がつながったあかつきには、それぞれの場所の固有性がより強い価値観として求められるようになるのではないでしょうか。しかも、ただ単にその場所をそのまま残すだけでは不十分なのかもしれません。
その場所が持つ歴史や文化などを踏まえつつ、それを更に掘り下げ、それらが持つ固有性を現代の価値観につなげていき、既存の固有性をさらにそのポテンシャルを高めるかたちで、その場所のあり方をつねに再考していく必要があるように思えます。
維持するだけではなく、ものすごいスピードで、ものすごい回数の再考を無限に行っていくようなダイナミックで深淵なエネルギーをその場所ごとに与えていくことがこれからの都市開発の肝になるのではないでしょうか。