
都市に必要なのは、整ったリズムを壊してくれる不協和音。
僕は大分県出身で、10代後半にアートに出会いました。美大に行こうと思っていたのですが、あるとき、雑誌を見ていてふと気が付いたのです。世界にはいろいろなアーティストがいて、活動場所や教えている大学もバラバラ。だったら、この人たちそれぞれに話を聞きに行けばいいのではないかと。その頃はあまのじゃくなところがあって、大学で学ぶことだけがすべてではないぞと思って、一浪中に個展を開いたりもしました。美大に属していない状態でアーティスト活動をスタートしているため、オーソドックスな発想がないんです。美術館やギャラリーでなければ作品を発表できないとは思っていなかった。僕が重きを置いてきたのは、何らかの課題と出会うこと。それらとどういう形で向き合い、アプローチしていけるかを考えるのが、とにかく好きだったのです。
20代後半までを過ごした大分には、現代アートに特化したギャラリーがほぼなかったので、自分たちで発表の場をつくる必要がありました。展覧会の話をもらっても、工場などを借りて場所づくりから始める。そうした経験もあり、発表の場としての美術館と街なかを線引きする感覚が、最初からないに等しいんです。展示を行うことと、市民と一緒に進めるプロジェクトの境目がほとんどないのが、僕の特徴かもしれません。
こんな言い方も変ですが、僕には、絵を描きたいとか、オブジェをつくりたいという欲求はほとんどありません。小沢剛さんや会田誠さんのような芸術家と話をすると、ものづくりの欲求のかたちが自分とはまったく異なると感じます。取材などでは、「アーティストなのにどうして経営ができるのですか?」とか、「アーティストのときとアートプロデューサーのときで、考え方はどう違いますか?」とよく聞かれます。けれど、作品をつくる、つくらないという違い以外は、本質的にあまり変わらないと感じています。
たしかに、僕はアトリエにこもってものづくりはしませんが、何かしらのプロジェクトを常に手がけています。そのスタイル自体が僕の基本的な"創作活動"です。課題を見つけ、解決するための創造的な仕組みを考えて、動く。言うなれば「ルール」をつくっている。たとえば、2000年に東京都現代美術館で行った企画は、40メートルほどの巨大な塗り絵を用意して、来場者に思いのままクレヨンで塗ってもらうという内容でした。2000年から2001年にかけてニューヨークのMoMA PS1のレジデンスの企画に参加したときは、人から借りてきたカバンを並べ、ニューヨークのシティスケープ(都市の光景)をつくりました。それは「カバンが並ぶ」というルールをもつ風景を作りたかったから。
どの場所で、どんなふうに風景を立ち上げるのか。そして、新しくてどこにも属さない風景を生み出せるかが、僕にとってはすごく重要です。2004年、それまで拠点にしていたパリから帰国したのは、別府でアートフェスティバルを実施したいと思ったからでした。当初、別府での活動は3、4年だけ続けるつもりだったんです。しかしいざ始めてみると、実に多くの課題が出てきました。一般的に、ひとつの作品を制作する創作活動ならばその期間は長くても数年ほど。"お披露目"という明確なゴールが存在します。一方で、まちを巻き込むプロジェクトにはゴールがない。まちと人の関わりに終わりはありませんから。また、アートフェスティバルのような活動は1人ではできないので、必然的に組織化します。そして、組織として課題に向き合うとなると、継続しなければ乗り越えられないことが多いのです。
別府で試行錯誤しているうちにヨーロッパに戻るどころではなくなり、気付けば20年以上経っていました(笑)。帰郷を決めた当初は、別府でのプロジェクトをサバティカル(長期休暇)のように捉えていたんです。それまでの僕はドイツ、アメリカ、フランスなどいろんな国で活動させてもらっており、アーティストとして比較的恵まれたキャリアを歩んでいました。美術館やギャラリーでの展覧会のために毎週どこかに作品を送ったり、現場に足を運んだりする日々で、朝起きたときに「あれ、ここはどこだろう?」とわからなくなるほど。今でもたまにそうなりますが(苦笑)。けれど、いろいろな土地を訪れても、空港とギャラリーや美術館を往復するだけで、街なかを歩くことはほぼなかった。しかも、忙しさと作品の売れ行きが比例しているわけでもない。
徐々にそうした活動に手応えを感じられなくなっていたなか、ふと目に留まったのが、別府のまちづくりの記事でした。それは、自主的に古い建造物の保存活動をしている人たちを取り上げたものでした。誰かに頼まれたわけでも、どこかから予算が出るわけでもないのに、勝手にそんなことをしている。ある意味、余計なお世話ですよね。それが面白くて、その人たちに会ってみたい、と直感的に思ったのです。自分の故郷が舞台になっている点にも興味を引かれました。そろそろ、地に足を着けたかったのかもしれませんね。自分が知っている昔の別府の風景や歴史を思い出しながら、いろいろなアーティストやクリエイターが関わるフェスティバルの夢が膨らみました。きっと市民も喜ぶに違いないし、世界中からお客さんが来るだろうと、心躍らせて帰国を決めたのです。
今思えばおこがましく、恥ずかしい。僕は"上から目線"でした。「さびれた温泉地を自分のネットワークで元気にする!」という気持ちでありながら、自分の拠点はパリのままのつもりでいて。しかし、帰郷後すぐに気が付きました。別府には気前よくお金を出してくれる人もいませんし、そもそもアートに興味のありそうな人も皆無。「イベントするのは楽しそうだけど、アートっちゃなんか?(アートって何?)」と聞かれて、説明しようとする。最初は僕自身も説得力ある言葉をもっていなかったので、どう語れば伝わるのかを探ることが第一の課題でした。
何かを形にするために冷静に考えていくと、足りないことや障壁がたくさん浮かび上がってきます。一足飛びに目的地にはたどり着けないから、一つひとつ地道に取り組んでいくしか方法はありません。別府で学んだのは、逆算の姿勢。必要なこと、やるべきことを洗い出す。プロジェクトの実現とはつまるところ、その連続だと実感しています。

僕はものを作りたいという欲求がないと言いましたが、自分が考えたことが現実になるのを見たいという欲求はすごくあります。そして、とにかく新しい風景を見たい。「作りたい」というよりも「見たい」が出てくる点で、とてつもなくモチベーションが高い観客みたいなものだなと思います。
けれど、ただやりたいことだけをやれているのではなく、その周辺にやらなければいけないことが無数に存在します。アスリートが金メダルを目標に膨大な練習プログラムを組むのと、もしかしたら似ているかもしれません。ただ、それらを全部こなせば自信をもてるかというと、決してそんなことはない。僕の場合は何をやっても心配は尽きないのです。
何かを継続するにはパッションも非常に大事ですが、周りから必要とされ続けることが不可欠。僕は、まちの課題に向き合うためにアートが必要だと信じていますが、まちの人たちにもそう思ってもらえることが重要です。それに関してとても印象に残っていることがあります。2009年、別府で芸術祭《混浴温泉世界》を開催しました。そこで、来場したおばあさんから「来年も来るわね」と声をかけられたんです。僕は、一度きりの芸術祭のつもりで開催をゴールと捉えていたので、衝撃を受けました。僕の見たかった風景が、ほかの人も見たい風景になり、みんなのカレンダーに書き込まれていく。パブリックとはこういうことかと実感し、「継続」の意義を感じた瞬間でもありました。
《混浴温泉世界》
2009年に初開催された、国際芸術祭。別府のシンボルである「温泉」をメインテーマに掲げ、まち全体を美術館に見立てた地域密着型のプログラムとして話題を呼んだ。2012年、2015年と計3回開催。2016年以降は毎年、国際的に活躍するアーティストを1人招聘し、個展形式で作品を展開する《in BEPPU》に移行した。現在は一時休止中。
廣川玉枝 in BEPPU/2021/Photo by Takeshi Hirabayashi ©混浴温泉世界実行委員会
撮影場所:東京ミッドタウン 芝生広場
