
自分の中に存在する音楽を、最先端技術を駆使して探究する。
大学生の頃はアルバイトとしてDJをしていたので、毎晩のように六本木に来ていました。BGMをかけてお客さんを踊らせる職人的なDJをしていたのが1995年頃......もう30年前の話になります。さらにさかのぼると、小学校時代はサッカー少年で、キャプテンを務めていました。目黒や新宿、渋谷辺りのエリアの代表選手に選抜されたこともあったんです。
サッカーと同じくらい、ゲームも好きでした。僕が小学生の頃は、パソコンがやっと家庭に普及しはじめた時代で、本を見ながら簡単なゲームをつくることに熱中していました。当時ちょっとしたブームになっていたので、僕が特別というわけではなかったんじゃないかな。今のデジタル表現のベースになっている、プレイヤーがボタンを押すと映像が動いたり音が鳴ったりする双方向の仕組みは、実はゲームが発端で、ゲームはインタラクティブメディアの最高峰だと思っています。
うちは母がシンセサイザーの仕事を、父は当時放送されていた『夜のヒットスタジオ』という番組に毎週出ているようなプロのスタジオミュージシャンをしていたのもあって、子どもの頃から音楽面の影響は大いに受けていると思います。ただ、両親にやりなさいと言われていた音楽は、いわゆる楽譜を見て正しい音程で歌ったり、音を聴いて楽譜に書き取ったり、リズム練習をするソルフェージュの訓練がメインだったので、なかなか楽しさは感じられず......。中学に入るとき、頼み込んで辞めさせてもらった記憶があります。それでも高校1年生のときにDJに憧れて、一時期離れていた音楽の道に少しずつ入っていきました。
数学が得意だったので、進学したのは東京理科大学ですが、在学中はDJにさらにハマりつつ、バンド活動も行い、メジャーでCDを出したこともあります。
とはいえ、音楽で生活する難しさも実感していたので、卒業後はプログラマーとして就職したんです。2000年当時はwebビジネスが盛り上がっていて、途中でweb関連の企業に転職したものの、その後のネットバブルの崩壊に見事巻き込まれて職を失うことに。そこから半年ほど準備をして、岐阜にあるIAMASに入り直しました。そこで学んだのが、リアルタイムでインタラクティブな映像や音楽をつくることでした。今仕事として取り組んでいることは、これまでの経験の集大成であり、それが自分の基盤のひとつになっていると思います。
IAMAS
1996年に「国際情報科学芸術アカデミー」として設立され、2001年に「情報科学芸術大学院大学(IAMAS)」として改組・開学。芸術と科学の融合を建学の理念とし、先端技術と文化を織り交ぜた実践的な表現を主な研究テーマとしている。先端メディア表現を学ぶ機関として草分け的な存在であり、真鍋さんをはじめ、多くの卒業生が第一線で活躍している。
IAMAS卒業後は、東京芸大の先端芸術表現科の講師をしていました。当時から、ある人の「"若者の感覚をちょっと取り入れたい"という邪心を持って教育に関わるのは良くない」という言葉に共感して、教育は自分のためにやっちゃいけないと心に決めて臨んでいます。メンターとして参加した若手クリエイターを支援・育成するプログラム『Flying Tokyo 2024』も、シンプルに社会のために若手を育てるという思いだけで取り組んでいました。
『Flying Tokyo 2024』
経済産業省による令和5年度「デジタル等クリエイター人材創出事業費(アート・ファッション人材創出支援)」を活用して、ライゾマティクスが実施した、オーディオビジュアル、メディアパフォーマンス分野の若手クリエイターを支援・育成するプログラム。制作に必要な場所や機材などの提供はもちろん、真鍋さんをはじめとするプロフェッショナルによるガイダンスやフィードバックを通じて、若手クリエイターの課題を解決し、作品発表の成功へと導いた。
実際は、選抜した5人の若者の作品制作に半年間並走しながら、厳しいことをひたすらに言い続けていた感じです(笑)。既にプロで活躍しているクリエイターもいましたが、さらに国際的にも活躍してもらうために、「このコンセプトだと、こういうツッコミが入ると思う」「それ、昔やっていた人がいるけど大丈夫?」といった私が学生の頃によく指摘されていたようなアドバイスを伝えました。作品発表をすると必ず誰かに言われることなので、それを先回りして気付かせることがひとつの役目だと思っています。
教育に対する考え方に正解はないと思うんですが、僕は大学での講師経験から、自分が持っているものは出し惜しみせず「困ったら、何でも聞いて」というスタンスで教えたい。秘伝のタレを全部渡すという感覚で向き合っているところがあるし、今後も求められれば続けていきたいと思っています。
大学講師をしながら少しずつ増えてきたのは、ハイブランドの店舗のインスタレーションの仕事でした。例えば、今では一般的になっている、人の動きに連動して映像が変化するような仕掛けって、当時は僕ら以外やっている人がほぼいなかったんです。2、3年ほどそういった仕事を続け、2006年に友人4人で、ライゾマティクスを設立しました。僕はメンバーの中でもリアルタイムの音、映像、照明のソフトウェアの実装担当で、目の前にあるプロジェクトをどうやって問題解決するかに注力していたので、当時は未来のことはあまり考えていなかったかもしれません。
コラボレーションの機会も多くいただき、これまでもPerfumeやBjörk(ビョーク)、最近だと今年のコーチェラにも出演したベネズエラ出身のArca(アルカ)といったアーティストたちとのさまざまなプロジェクトをチームでつくりあげてきました。ただ、コラボレーションする相手は変わっても、メインの制作チームの顔ぶれは、大きくは変わりません。特に、ライゾマティクスの石橋素との出会いは僕にとって大きく、多くのことを学びながら成長させてもらいました。齋藤精一をはじめとするライゾマティクスのメンバーとは、気付けば20年以上の付き合いになります。だからこそ共通言語があって仕事の精度も高まるし、自分たちのリミットもお互い知っている。ギリギリを狙って、かなり攻めたチャレンジができるのはそのおかげですね。
Arca(アルカ)
ベネズエラ生まれ。現在はスペイン・バルセロナを拠点に活動するミュージシャン。ニューヨークの「Park Avenue Armory」で開催された4夜連続パフォーマンスシリーズ『Mutant;Destrudo』では真鍋さんによりカスタム・テクノロジーを駆使した映像作品『Incendio』を公開し、話題となった。
https://www.youtube.com/watch?v=xLJs4e9sBSY
もちろん、初めての人たちとのコラボレーションにも、そこにしかない楽しさがあります。ただ、一方ではコミュニケーション不足からすれ違いが起きることもあるので、その難しさやリスクを認識した上で向き合う必要があります。お互いのために共通認識を合わせてからプロジェクトを走らせたいので、僕は企画書だけで進めることはせず、スケッチやプロトタイプをたくさん準備して、自分ができることとできないことを明確に示すようにしています。特に、最近は制作前のワークショップに力を入れています。
実は海外のプロジェクトだと、ワークショップをやるのは当たり前。プロジェクトのメンバーに選ばれるために、クライアントにプレゼンするというオーディションのようなものですが、それこそ、Arcaとの仕事もワークショップから始まっています。世界中から超一流のアーティストやクリエイターが集まってくるので、Arcaが違うと思えば、もちろん採用されません。プロジェクトが動き出してもダメだと判断されれば、すぐにメンバーから外されてしまうシビアな世界ですが、優秀なスタッフが全力でコミットしているので仕事の密度が高く、個々の裁量も大きいのでやりがいを感じています。
その反面、以前は多少無理をしてでも仕事をしてきたところがありますが、今は断るということも大事にしています。そもそもやらないという選択肢を取るのって、意外と難しいんですよね。でも、あえて絞りこむことで精度が高いプロジェクトがより濃密になっている感覚があります。