意味から切り離された、ただそこにあるという神々しさ。
作家になるきっかけを得たのは高校生の時。当時から訳のわからないものや変なことをするのが好きで、課題があると違反ギリギリを攻めていたんです。中学では「変なことやりやがって」という反応だった先生からも、高校になるとちょっといい反応がもらえるようになったことも大きかったですね。
高校までは、絵を描くことにもまったく興味がありませんでした。現代美術のことは「変なことをやっているジャンルがある」と思っていて、本をめくるたびに「こんなのやっていいんだ 」とショックを受けていました。「何これ。ビデオ彫刻って、そんなのいいの? 」という感じで。そういうのを見て「俺これだったらやっていける」、「これなら負けない」と変な自信があったのかもしれない。
中でも最初に強烈な印象が残っているのはロバート・ラウシェンバーグ。当時、美術の教科書の表紙か何かになっていたので覚えているのですが、コンバイン・ペインティングという、ペンティングの上にヤギの剥製が乗っている作品でした。「ずるいじゃんこんなの」というのと同時に、「俺こういうの得意だわ」と思ったのを覚えています。
僕の作品は、モチーフから意味や目的を切り離して、ただ動くことを見せています。青臭いことを言うようですが、その方が真実に近いと思うからです。ただそこにあるだけのものって、何かすごく神々しい感じがするんです。
それは、赤瀬川原平のトマソン的なものなのかもしれない。例えば、何にも繋がっていない、電線がすべて取られてただ荒野に立っている電柱に、僕は神々しさを感じるんです。かつては何かに使われていたのだろうけれど、今はただそこにあるだけ。これから朽ちていくんだろうっていうものができたらいい。ワニがまわる作品も少しコミカルな感じですが、見る人が「なんなの?」って思ってくれたらいい。
2014年頃、久しぶりに「まわるワニ」を展示した時、大学の友だちに「これ、全然古くならないね」と言ってもらったことがあって。2人で「なぜだろう」と考えました。結果、おそらく意味や文脈から切り離されていることで、語りづらく、評価しづらくなるからではないかという答えにたどり着きました。
豊洲にある石川島播磨重工の乗船所跡地の展示では、本来おもりとしての機能を持つ錨に穴を開けて軽量化し、軽い錨をつくったんです。作品名はずばり《ライトアンカー》。これは、意味を反転することで「ハマったな」と感じたパブリックアート。こんな風に具体的なお題があると、その文脈を解体するのが楽しいですね。
コロナの前、アートフェアや展覧会で地球を2周くらいしました。マイアミ、バーゼル、香港と様々な街を訪れたのですが、リバプールで偶然ものすごい作品に遭遇したんです。街中で、廃墟のビルの一部が円形にくり抜かれて回転するというとんでもない作品。立ちくらみがするほどのショックを受けました。作品をつくったのはリチャード・ウィルソンで、実際のビルの一部が本当に動くんです。
取り壊される予定のビルを用いた作品で、下には普通に通行人がいたりするんです。ビルを丸く切る技術、壁面を回転させる技術......。「こんなこと許されるんだ」と、すべてが謎で衝撃的でした。
六本木を舞台に何かするとしたら、このくらいのことをやりたいですね。日本でキネティックな作品を制作する場合、安全性を考えたら屋内で、となりますが、海外ではある程度のレベルの作家になるとこういう無茶苦茶なことをやるので、その攻めの姿勢は見習わなくちゃいけないなと思います。これぐらいスケールの大きい作品をつくったら、電源を入れる時、手が震える......と言うより、失神しちゃうかもしれない。もう、ボタンを押さないで帰っちゃうかもしれません(笑)。想像しただけでもドキドキしてしまいます。
撮影場所:『ワニがまわる タムラサトル』(会場:国立新美術館 企画展示室1E、会期:2022年6月15日〜7月18日)
取材を終えて......
カラフルで巨大なワニがまわる、ギリギリと音を立ててマシーンが動く......。タムラサトルさんの作品を見ていると、子どもの頃に水を上からこぼして遊んでいた時のような、あるいはただ広い海を目の前にした時のような気持ちの良い思考停止状態に陥る感覚があります。「鑑賞者として、これで合っているのか」と思っていたこともあったけれど、意味や文脈から切り離されてただそこにあるものへの眼差しは、こういうものなのかもしれないな、とお話を聞いていてすっと腹に落ちるものがありました。(text_koh degawa)