世界の豊かさは、曖昧な空間でこそ見つかる。
現在は東京の事務所とパリのアトリエを拠点にしているので、自然とその2都市に滞在する時間は長くなります。どちらにも愛着がありますし、「戻ってきた」という安心感があります。ニューヨークはなじみのある街ではないのですが、東京、パリと同様にいいなと感じる街の一つ。その3都市ってそれぞれに違うアイデンティティがあるけれど、ヒューマンスケールと都市ゆえのダイナミズムみたいものの両方がうまく連動していて、すごく好きなんですよね。
ヴェネツィアやドゥブロヴニクといった、小さなエリアにすべてが詰まっている小宇宙のような都市にも惹かれます。ただ、自己矛盾してしまいますが、もし2つの街が東京の中にポコンとあったら、さほど惹かれないのかもしれません。美しい海に囲まれた島というのがやはり良いですね。そもそも街って住んでいる人も宿泊している人もいて、市役所のようなパブリックな場所もレストランや商店もある場所。巨大都市にその全部が詰まっていることに不思議はないけれど、小さな街にも同じようにすべてがある、あの多様性が凝縮している感じが好きなんだと思います。歩いて巡れるというのも良いですね。人間と都市がちゃんと連続している感じがある。
また、東京の街はほぼ人工物しかないんだけれども、ある種、有機的なつくられ方をしていて、多様さと調和がちゃんとある。ヒューマンスケールの街がそのまま巨大都市になり得ている、とても稀有な存在のような気がしています。そこが大きな魅力ですが、今後そういう場所であり続けるのかといえば、どうやらそうはいかなさそうだなとも感じる。我々建築家の責任もありますが、大きなコンクリートの塊みたいなものがどんどんできると道も単調になり、風景もなんとなく硬く見えてしまうんです。
これは僕の考えですけど、今は建築物と道、その間のランドスケープと言われる場所が、はっきり分かれすぎていて、もったいないと思うんです。建築が道のようになってもいいし、道が建築のようになってもいいし、ランドスケープが道と溶け合ってもいい。私有地と公共の道路の区切りが曖昧になってくるのは、法律や制度などを考えると非常に厄介ではありますが、東京ミッドタウン、六本木ヒルズくらいの規模の開発であれば、中に都市的な意味での道も自由につくれるはず。そう考えると、今後の開発は道と建築物と、地形やグリーンといったランドスケープが混然一体となって溶け合い、そのどれとも違う新しい場所のつくられ方をしていくんじゃないかと思うんです。
そうすると、いままで道も建築も遠慮して何となく取り残されていた、"間の場所"みたいなものがつくられる可能性が広がって、より街が豊かになると思うんです。僕が魅力を感じる商店街のようなごちゃごちゃした場所って、道と建物の間にお店の商品が並んでいたり、勝手に植木鉢が置かれていたり、日常の中で無意識的に拡張されていった場所な気がするんです。それをもう少し大きなスケールで、意識的にやっていくと建物も道の風景もまったく変わるはず。例えば、道なのか洞窟なのかわからないような建造物があり、そこに川が流れていて、実は川下にはライブラリーがあって、道の代わりに川を伝ってそこに行く、みたいな。そうやって、境界線なくごちゃごちゃ組み合わさった場所をつくれたら面白いですよね。
それが東京の中心地・六本木だとなおいいなと思います。これは僕の印象ですが、六本木は地形がちゃんとある街だと感じるんです。地形は人工的につくるわけにはいかないので、その場所のアイデンティティの骨格を成すものになる。かつ、六本木は街自体のアイデンティティがしっかりしているので、周囲との関係の中で場をつくっていけるのが大きな強みですよね。結局、新しい場所ができても、自立して自閉的に立っているのでは意味がない。周りの街と共鳴しながらも、同時にその中に特別な世界が広がっているからいいんだと思うんです。あと、小さな公園もかわいくていいかもしれません。不思議な公園が急に街の中にあって、子どもたちが密かに遊んでいるような、そんな場所が六本木にあったら楽しいと思います。
昨年、僕が参加させてもらった《UNIQLO PARK 横浜ベイサイド店》も不思議な公園なんですよ。3階建てで1階がユニクロ、2階がGU、3階には両店の子供服が売っていて。例えば、GUに行きたい人は店内からエスカレーターで2階に上がってもいいけど、公園の一部である外の階段をのぼって直接入ってもいいんです。GUのあとに3階でキッズの服を買って、帰りは公園の滑り台を降りて駐車場に向かってもいい。まさに公園と建物、パブリックと私有地の縦割りの区分が、いい意味で溶けちゃっているんですよね。
そもそも都市の成り立ちは、いろんなものが集まっていて選択肢が増えるというところだと思うんです。でも、これだけ都市化が進むと選択肢が増えているのか、いないのかもわからない状況になっている。特にコロナ禍で感じるのが、選択肢が狭まることの窮屈さ。人間って、こうしなくてはいけないという生き方には向いていなくて、「今日はここでごはんを食べよう」「今日はこのへんで仕事をしようかな」と自分の意思で選択できるところから、豊かさが出てくる気がするんです。
一方では「これはダメ」「こうあってください」と限定、制限することで物事を整理整頓して、何とか秩序を保とうとしているのが人間社会でもある。たしかに見せかけの秩序はそれで保たれるかもしれないけれど、果たして人間的な秩序が保たれるのか。そう考えると、今後は限定するより選択肢が増える方向に向かうのがいいんじゃないかと思うんですよね。先の混然一体となって溶け合いながら共存する街であれば、あれをやっていい、これもやっていいと選択できる環境に繋がる。こうじゃなきゃ、ではなくて、あれもいいしこれもいい、という考え方。それは多様な価値観とともに共存することでもあるし、自分の選択肢も広がる。それがポジティブに成立している状態がデザインできれば、街や建築がよりよいものになるように思います。
さらに、その中で野心的な開発の試みがどんどん起こるといいですよね。僕が今参加させてもらっている《TOKYO TORCH》では、超高層ビル「Torch Tower(トーチタワー)」の上層階に丘のようなものをつくっています。本来は普通に高層ビルを建てれば、何の問題もなくいいものができるんですよね。でも、「未来に向かって何かチャレンジをしたい」という思いが事業者さんにあって。コロナ禍も影響しているかもしれませんが、そういう思いの事業者さんやディベロッパーさんが増えている気がするんです。「このまま同じように街をつくってもよいのだろうか」という根本的な疑問がみんなの中に生まれている。それは現状を否定する意味ではなく、街がもっと面白くなれるんじゃないかというポジティブな思いであり、街の新しい可能性をみんなで開こうとしている表れ。そういう意味で、すごくエキサイティングなプロジェクトだと感じています。
さらに時代が進み2050年くらいになると、自然と都市環境の共存の仕方が必然的にテーマになるはずです。今は建築にグリーンを入れるというのが、ようやくはじまった黎明期。なのでとりあえず、ダイレクトに樹木を建物に載せている。近未来には、単にグリーンを載せるだけではなくて、内部と外部の関係の仕方や、先ほどの Torch Tower のように丘のような地形的な要素、さらには建築自体もより多様で複雑なものが可能になり、結果として建物自体が地球の延長のようになってくるかもしれない。
今も昔も、僕の一番大きな関心事は「人間のための場所」。狭義の建築というより、人間が活動する今後の生活環境がどうなっていくのかという関心が常にあるんです。個人と個人の関係が繋がり合って社会になり、情報テクノロジーだとかいろんな概念が入ってきて、さまざまな関係が生まれるわけですよね。それが時代精神となり、社会像を大きくつくっていく。その社会像と今後つくられる建築は、やはり切っても切り離せないものだと思うんです。人間の社会の成り立ちとか、人と人との関係性がどう動いているかが、今後の建築に直結するので、広い意味で関心を持ちつつ、都市環境や生活環境の未来に思いを馳せているという感じですね。
その中でも普遍的なものは何かと考えると、すごく難しいですよね......。人間の体の形は変わらないものとして捉えていいのかなと思う時もあるのですが、人を取り巻く状況がすごい勢いで変化していることを考えると、そもそも普遍的なものがあるのかという疑問に行き着く。ただ、今僕らが2000年前の建物を見て「やっぱり、すごい!」となることを思うと、今僕たちがつくっているものが、2000年後の人間にも何かしら感じてもらえるものはあるのかなと考えたりもします。そのためにも、常に自分の意識が更新されて新しい発見があるほうがいいのかなと思っています。実際さまざまなプロジェクトに関わるたび、この世界の豊かさを発見するような感覚がある。だから、僕は今もなお設計を続けているのだと思います。
取材を終えて......
ご本人は「自然溢れる場所で育ったので、自然そのものにあまり憧れのようなものはないんですよ」と笑っていましたが、藤本さんのつくるものは、人間が勝手に線を引いた自然と人工という"境界"を優しくなじませて、自然に対して素敵なプレゼントをそっと添えているように感じるのです。もちろん人に対しても。ぶっ飛んだ天才とはまた種類が違うけれど、藤本さんにはやはり天才性がある。静かなる天才であり人格者。この先も見たことのない場所を私たちに見せ続けてくれるのでしょう。(text_akiko miyaura)