伝えあい、関わりあい、そして「うまくいかない」喜びを求めて。
21_21で開催中の「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」は「わかりあえなさをわかりあおう」がテーマになっているのですが、何と「わかりあえない」って、僕がもっともわかりあえないのは、自分です。わからないから自分でいられるのかもしれないし、まあいいんです。わからなくて。わかろうとする努力というのも美しいものですし、その「わからない自分」に付き合っていくのが楽しい。わからないからといって、放置したり、考えないようにするのは、どうかな、という気がします。
一方で他人のことは自分じゃないから、なんとなく、それなりにわかる感じがするんだけど、これも感じがするってだけで、もともと「わかる」なんて無理なんです。何かを正確にわかるなんて、できっこない。でも、その「わからなさ」を今の人はものすごく嫌がりますよね。未知のこと、知らないことに対する不安の方が大きくて、ついついガードをしてしまう。あまりステキじゃないです。
高度成長期っていうのは、よくわからないことに対して、みんながめちゃくちゃ期待をしたんです。未知のものは、きっとすごくいいものだろう、と。つちのこ発見! とか、宇宙人と交信したい! とか、そういうものを含めても含めなくても、とにかくまだ見ぬものに対する喜びがあった。でも最近は、未知のもの、わからないものは恐怖であり、不快とか不安と感じてしまう。その不安をベースに社会や経済が動いてしまっている。だからコロナ禍になっても、もともと保険だとか安全のためのセキュリティとか、不安ビジネスの中で生きているから、慣れてるわ〜、って感じもあるけどね。本当は、まだ見ぬものやこれから先のものに対して、もっとワクワクできる社会であってほしいと思っている今日この頃です。
学生に「将来はどうしたい?」と聞いても、最近は、私はこれがやりたい! という力強い応えが返ってくることはなく、「無事に生きていければ......」と。守りの姿勢ばかりになっていて、せっかく生きているのにもったいないな、と思います。不安定な状況が大きいからわからなくもないけど、安全に生きようとしても、どうなんでしょうね。社会なんて、つねに動いてるからね。だから、無理に安全を得ようとするのではなく、安全じゃないところでも豊かに過ごすためにはどうすればいいか。これをちゃんと考えたほうがいいんじゃないかなって思います。
僕は不安というものを、あまり怖がらないほうがいいんじゃないかと思います。危険はどこにだって常にあるから、どんなものにも不安はある。目指すべきは不安との楽しい付き合い方というか、不安とのいい関係。最初から、受け入れてしまえばいいんじゃないかなあ。わからない、とか、わかりあえない、ということも、最初からそれを前提にすると、どちらが正しい、正しくない、といったやりとりに陥らない、豊かな世界になる。つまり、わかりあえないということは、豊かなことなんです。
敵と味方といった関係も必要なくなります。昔はチャンバラでも戦隊ものでも、敵と味方がいて、両者のバトルが人気を集めるという時代がありました。でも今は、そのバトルは面白くもなんともなくて、逆にやめてくれよ、って気分ですよね。これは「仮面ライダー」の物語の変遷とかを見てても感じるんですけど、最近は隣りにいる仲良しが実はライバルだったり敵だったりしつつ、うまくやっていけるかが物語の鍵だったりもするんです。昔で言うところのヒーローとヒールが、一緒にお茶を飲める時代が近づいてきている気がします。
今回の展覧会のお話をいただいた時、最初は「翻訳展」でした。そのときは正直、「翻訳」がテーマというのは、どうなんだろう......と、あまりよく思っていませんでした。というのも、たまに、「デザインは翻訳だ」という人がいて、「ある事柄を、相手に合わせた伝えやすいものに変換する作業」がデザインだと思い込んでいるヤングデザイナーも多い。でも、デザインは翻訳とは違うものだし、そういう変換装置のことをいうわけではないんじゃないかなって思います。
もちろん、何かを「伝える」ために必要なデザインもあります。でも、伝えやすく、わかりやすくすること以上にデザインで大切なのは、「伝え合い、関わり合うことの喜びや豊かさ」だと僕は思ってます。
それに対して、翻訳という言葉は、一般的に「ある言葉からある言葉への変換」という一方通行的なイメージがどうしても強くて、そういう伝えるための技術を紹介するだけならつまらないな、と思っていたんだけど、よく聞いたら翻訳じゃなくて「トランスレーションズ」だって。そしてトランスレーションズには人と人との間の「架け橋」という意味合いがあるんだと展覧会のディレクターであるドミニク・チェンさんに教えてもらって、それだ! と。架け橋という状態だったら、伝えている内容が伝わったかではなく、「伝えようとしている時に起こってくる楽しさ」がテーマになってくる。その楽しさこそが、重要なんです。
日常の中に普通にあるものって、記憶から消えていくんですよね。見えなくなっていく。それは、1点をじーっと見ていると周りと同化していくのと同じで、馴染んでしまう。でも、そんな「馴染んでしまっていた日常のもの」を思い出させてくれるのが、「伝えようとする気持ち」であり、その入り口づくり、扉づくりがデザインなんだと思うんです。
もっと言うと、僕のデザインテーマは、「うまくいかない喜び」です。もちろん、うまく行くことは大事で、うまく行くことでの達成感はあるんだけど、それはスポーツ的な達成感であり関係性の優越に対する喜びだけであって、むしろ、うまく行くことほど、退屈なことはないと思っているくらいです。だって生きていくということは、不安定なバランスを楽しんでいくことだから。
なんかさ、ひっかかりがあるじゃん。たとえば、書道でも、筆と紙の「関係の悪さ」がいい書になってくる。あんまりススススっとうまく行きすぎると、つまらない。よくあるペン字入門の見本にあるような。まあ綺麗だけれど、本人が消えてなくなっているような文字になる。ひっかかることによって、字でもなんでもいいものが生まれてくる。ひっかかりの面白さに身体と一緒に向き合ってこそ、なんかいいものが描けたな、とか、なんかいい関係になったな、って瞬間が生まれる。
デザインとは、いい関係をつくるひっかかりで、何かときめきを感じたり、感じさせたりしてしまうようなもの。まあ「いい関係」かどうかをわかる必要もないわけだけれど、あまり意味から考えないで、「嬉しい物体」とか「嬉しい状態」をどのようにつくるか。そこがとても大事だなあと思っています。そして、それぞれが関係することにおいて、どちらが主でもなく、主客が呼吸するように入れ替わり続けているような、そんな状態が好きです。