感覚と外界の接点にあるアートが、引きこもり型の脳を刺激する。
虫からの発見や気付きは何かって、よく聞かれるんだけど、どうやら、前提が逆になっているみたいです。虫獲り、魚獲り、カニ獲りから僕の人生は、はじまっているから、気付きも何も。人の世なんて、虫採りの人生に後から付いてきたお付き合い、「世間の義理」みたいなものです。
僕は鎌倉で生まれ育ちましたが、小学校2年生の時に終戦ですからね。その頃は子どもなんてほっぽりっぱなし。鎌倉には当時まだ里山が色濃く残っていて、炭焼きもやっていたし、荷運びは、牛か馬で、医者の往診も人力車、という時代です。だから、することといったら虫採りくらい。それは少年時代に限った話だとみんな思っているんだけど、結局、今日の今日までを振り返っても人生のメインは虫採りですから。ひとりになると、虫を見たり、魚を見たりしてるだけ。昨日も朝から、虫採りに行きました。
なぜかって、根本は、その方が安心するんです。人間の世界って、いろいろ難しいんですよね。お金のこととか、人付き合いとか。虫の世界はそれが全くないでしょう。僕にとっては、虫との関係、自然との関係が原点でもあるし、それに、虫は簡単には変わりません。人間よりも、何十億年も長く、生き物の先輩として存在している。
「変わらない」ことは、安心にも繋がります。解剖もそうです。生きている人は時々刻々と動いているけれど、死んでいる人はもう動かないし変わらない。現代人はわりあいと、不安だ不安だと言うけれど、みんな、どうやってその不安を解消しているんですかね。僕の場合は、少なくとも、虫を見ていたり、解剖をしていたりする時は、不安から解放されます。
今回の展覧会『虫展 -デザインのお手本-』では、700倍に拡大した『シロモンクモゾウムシの脚』も展示されています。僕はよく言うんだけど、小さいものを拡大するということは、世界を拡大することです。でも、その先を誤解しがちですが、小さいものを拡大して世界が拡大されると、なぜか「世界をよく見た」と思ってしまう。そうではないんです。小さいものを拡大し、世界が拡大されると、世界は、ぼやけるんです。ある一部分を拡大したレベルが10倍とすると、その隣りも、そのまた隣りも、つまり、全世界が10倍になっているわけで、そんな膨大な世界なんて見られるわけがないだろうという話です。10倍拡大したら、10倍の見えないことが増えるだけ。つまり、「分からないこと」が増えるだけなんです。
虫展 -デザインのお手本-
シロモンクモゾウムシの脚
シロモンクモゾウムシの脚を700倍拡大したら、じゃあ、オオゾウムシの脚はどうなっているのか、とか疑問がわきます。日本だけでゾウムシは1,600種類ありますから。それをひとつの種の一部分を見ただけで「分かった」つもりになるのは、要するに「以下同様」でどれも同じだと思って差異を見ていないからですよ。クマゾウムシの脚がああならば、オオゾウムシの脚も同じだろうって。ところがどっこい、全部違う。
だから僕は、「進歩」と呼ばれるものに非常に強い疑いを持っているんです。電子顕微鏡で人間の細胞を10万倍にして見たとしたら、現物の人間も10万倍に相当するわけで、そのすべてを調べるなんて、机上を飛び出すどころか、それはもう、宇宙旅行ですよ。科学の授業では平気でそれをやって、大学の先生も生徒も、自分たちが世界を分かるようにしていると思っている。というわけで、今回の展覧会も、ここに来て拡大されたものを見たら、虫のことが「分かる」なんて思ったら、大間違いです(笑)。分からないことを増やしているだけだから。
「分からない」っていうのは、悪いことではないんです。分からないからこそ面白いと思えればいい。けれど、人間は往々にして、分からないものがある状態を都合が悪いと考えます。そして都合が悪いものは排除する。すると結局、自分の周りに分かるものしか置かなくなる。意味を問うことができるものしか置かなくなる。別の言い方をすれば、分からなくて都合の悪い「自然のもの」は置かない、ということになる。
人間そのものは自然から発生しているから、自然の部分を持っています。でも、都市は、人間からその部分を排除しようとしています。自然の行為であっても、現代社会や現代の都市でやってはいけないことはたくさんある。たとえば、道ばたで立ち小便をしたら、怒られるでしょう。生き物としての尿意は自然なんだけど、そういうものを徹底的に排除して社会も都市も成り立っている。死体があると困る、というのも同じですね。死だって自然ですから。死んだ結果発生するのが死体ですが、死体がそのへんに転がっていたら、扱いに困ります。困るから片付けなければならないとなった時、どうします? 簡単ですよ。酔っぱらって倒れている人と同じ扱いをすればいい。酔っぱらいに対して、わざわざ頭を蹴飛ばしたりはしないでしょう。同じことで、そっと運べばいい。
そうやって人間が自然を排除し続けると、どうなるでしょうか。脳は、意識の中に引きこもっていきます。まさに、現代人の脳は「引きこもり型」といってもいい。
「引きこもり型」になった脳を正常に戻すためには、感覚を取り戻すことが必要です。その感覚を取り戻すためには、「自然のもの」に触れればいい。となるわけですが、いきなり「自然のもの」に直面させると、刺激が強すぎるんです。急に死体を見せたり、ゴキブリの大群を見せたりすると、拒絶してしまいます。だからまず、きれいなものから見せていくといいんです。流入経路が開かないと感覚も入ってくれませんから。そういう意味でアートは、非常にいいきっかけになると思いますよ。外の世界と繋がる感覚が、通りやすくなる。そのアート自体も時々、自閉気味になってしまうので、今回の展覧会のように、「虫」という自然をアートやデザインのお手本として扱うことは、とてもいいのではないかと考えています。
アートは「人がつくるもの」という意味で、ともすると自然と対局にあるものだと捉えられがちです。でも、本当はそうじゃない。アートは自然と同じように、感覚の域にあるもので、もっと言えば、感覚と外界の接点にあるものです。たとえば、今回の展覧会でも紹介している小檜山賢二さんの「トビケラの巣」の画像は、自然の産物をアートの観点で見たものです。落ち葉や枝や小石などでつくられたトビケラの幼虫の巣は、驚くほど美しい。問題は、その場合、作品の作者は誰なのかで(笑)、アートとしては小檜山さん、いやいや、やっぱりトビケラか。どっちなんでしょうね。
デザインについてお手本にした「自然」をどう展開していくかは、デザインをやっている人にお任せするしかない。時々、そういうことを学ぶには、どんな本を読んだらいいか聞かれますが、本は所詮、人の頭の中のアウトプットですからね。本は、整理するために読むもので、体験は現物からおこさなくではダメです。人の話を聞いてなんとかしよう、なんていうのは怠け者です。クリエイターが一番やらなければならないのは、身体を使うこと。つまり、感覚を使うことなんです。
トビケラの巣