鑑賞者の目が集まることで見えてくるもの。
現代アーティストの荒神明香(こうじん・はるか)さん、ディレクターの南川憲二さん、インストーラーの増井宏文さんを中心メンバーとする、現代芸術活動チーム「目[mé]」。簡潔にしてインパクトのあるチーム名の通り、不確かな現実世界や普段意識しないような現象を「見る」ことに徹底してこだわり、作品を発表するたびに話題を呼んでいます。今回は南川さんと荒神さんに、森美術館で開催中の「六本木クロッシング2019展:つないでみる」で発表している新作について、そして作品や鑑賞者とのつながり方、チームとしてつながることで可能になることなどをうかがいました。
荒神日常でふと気づいたり、思いついたりしたことを、子どもの頃からよくスケッチしていたんですけど、自由に発想するところまでは純粋に楽しくできるんです。そこからいざタイトルを考えたり、人に見せることを考え始めると、テンションがガクッと下がってしまって。さらに制作に入ってくると、いろんな人と協力し合って進めることが大事になってきて、そういったことを仕切るのが苦手だったんです。
その点、目としてチームでやっていると、自分の得意なことに集中させてもらえるのがありがたいですね。私が気づいたことを南川が具体的に言葉やプランにして、増井が実際に制作していく過程でも、想像できなかった手法が出てきたりして、それによって自分の頭のなかでも全然違うかたちになっていくんです。お互いを信頼し合っているからこそ、それぞれの仕事を全うできるし、チームでいるほうが自分らしくいられるんですよね。
南川荒神とは東京藝大の大学院で知り合ったのですが、当時、僕と増井は「wah document」として、アイデアを広く募集してそれを実現するっていう、アーティストの特権性を逆手に取ったような活動をしていました。そんななかで、1歳のときの記憶を引っ張り出して作品にしているような荒神を本物だなと思って、才能に惹かれていたんですけど、僕自信がそれを認めたくない時期が結構あって。自分の活動が唯一無二だというような偏った思いがモチベーションになるものだから、そうではないかもしれないっていう事実が受け入れられなくて、「僕っていいもの持ってる?」って知り合いにしつこく電話したりして(笑)。
でもこの人の持っているものが、自分よりも圧倒的にすごいってことを認めたらどうなるんだろうと考えたとき、それぞれのクリエイティビティを特化させる、チームという形体を思いついたんです。アーティストは十人十色っていいますけど、マネージメントがうまい人とか、コミュニケーションが得意な人とか、たしかにいろいろいますよね。
だけど現状の美大の制度だと、アート作品をつくりたいと思ったら、ひと括りにアーティストと名乗って活動していくという選択に偏りがあって、相当数のアーティストが毎年輩出されることになっている。それをインストーラーとかコーディネーターとかマネージャーとか、本人に適応したかたちでクリエイティビティをより細分化できれば、もっといい活動や表現が生まれるだろうし、アートシーンがもっと活性化していくはず。今は言わば、求められている数に対して、参加するアーティストの数が多すぎるデフレの状態。でも最も大事なおもしろい作品や新しい活動は全然足りていない。そんな滞りを変える、最初の事例になってやろうという思いもあって、割り切っていこうと思いました。
南川アートは死ぬとか生きるとか、いわゆる死生観と直結できるところがおもしろいと思っていて。僕はもうすぐ40歳なんですけど、自分があと4〜50年生きていくのにどれくらいお金が要るんだろうとか、考えますよね。ほとんどの人がそんなことを考えてるとかって思うと、やっぱり「この人生って何?」とかって普通に思いますよね(笑)。でもまずは、生きていくことを肯定できることが不可欠で、そういった意味でも、僕はそれができるのがアートだと思うし、何か今にも見失ってしまいそうなものをひっくり返したいですよね。
荒神生きること自体がそれなりに大変だから、わかること、理解しやすいことのほうにどうしても反応してしまうじゃないですか。でもわからないことを肯定したり、わからないっていう事実を積極的に受け入れることが、とても大事だと思っていて。子どものときほどわからないことをどんどん吸収するけど、わかった途端にそれ以上考えることをやめて、見なくなってしまいますよね。だけど知り得ないことが本当はたくさんあるし、そこに目を向けることが、南川の話す死生観につながってくる気がするんです。普通の日常を送りながら、わからないことを受け入れる余白ができたら、生きていくことがもっと楽しくなるだろうなあと思っています。
荒神最初に南川が今回の作品についての説明でも話した、鑑賞者の反応。気づきを得てハッとしたり、急に写真を撮り出したり、想像していなかったようなストーリーを話し始めたり、鑑賞者が主体的になる瞬間を目の当たりにすると、こちらもハッとしたり「だよねー!」って思ったり、ときどき涙が出るくらい嬉しくなるんです。そうやって心を動かされて、新しいものが生み出される瞬間が自分にはとても大事で、最近はむしろそこにアートの実感を得ています。
南川つくり手は鑑賞者を通してしか、作品に出くわすことができない。
荒神鑑賞者の行動で、私が聞いた一番好きな話は、『おじさんの顔が空に浮かぶ日』のとき。タイトル通り、15mのおじさんの顔の立体物を街の空に浮かべたんですけど、それを見たふたりのおばさまの話で、お互いが橋の両側から歩いてきて、橋の上から空に浮かぶおじさんの顔を見て、知り合いでもないのになぜかそのままふっと抱き合って、お互いに涙を流したそうなんです。
『おじさんの顔が空に浮かぶ日』
南川『憶測の成立』という作品では、今だから言えるけど、空き家を使ってそこが元々コインランドリーだったようにしか見えないような空間を作ったんですが、当然「ここはもともとコインランドリーだったの?」と質問する鑑賞者が結構いて、すると地元のおじいちゃんがいろんな人に「ここは昔からコインランドリーだったよ」と勝手に答えていたらしくて。どこでそう思い込んでしまったかわからないですが、そんな勘違いが広まることで作品の見方に大きな影響を与えていることがおもしろいと思います。
『憶測の成立』
南川森美術館は、いろんな広告を通り抜けて最終的に展示室に辿り着くっていう、かなり珍しい導線と言えるかもしれません。地方の美術館で同じ作品があったら、見え方は当然違ってくるんでしょうけど、六本木の場合は派手な映画のポスターとか、ファッションや巨大なモニターなど、広告をいっぱい見てから、作品と出会うことになるから、わりとどんな作品でも良くも悪くも馴染むということが影響していると思います。ヨーロッパとか文化や評価の成熟したような場所では、こうはならないかもしれないですが、逆に日本は経済的に成立していたら何をやってもいいようなところが特権かもしれないし、そこは世界一自由なんじゃないですかね。
そう考えると、街を変えるのはそんなに難しいことではなく、いろんなことができそうにも思えてきますよね。六本木なんてこれだけ強固で、ビルばっかりで、もうまったく手を入れられないように見える場所なのに、いろんな人がまだなんかやってやろうって思っていること自体がおもしろいし、そんな都市ってなかなかない気がします。
実を言うと僕には野望があって一角だけでもいいから街を和風にしたいんです。本当の木造建築とかじゃなくて、和でできている"ような"でいいんです。むしろその浅さがいい。江戸時代に景観が異常に発展していたみたいな、圧倒的に変で美しい街になると思うし、高速道路なんかも逆にかっこよく見えると思いますよ。無機質な高層ビルだってちょっと手を加えるだけで和風にできるだろうし、そういうことは得意なので勝手に見積もりを出したいくらい。
荒神私はまったく無意味な空間をつくってみたいですね。何もないこと自体を受け入れるような無法地帯みたいな場所があったら、おもしろいんじゃないかなって。先日渋谷のハロウィン騒動がありましたけど、悪いことをしたかったわけではなく、自由を共有したかったというか、みんなで「いる」ってことを確認し合いたかったんじゃないのかなって思うんです。だからここは自由な場所ですって言われたら、人はどんな風景をつくろうとするのか興味がありますね。
南川自分が今、興味があるのは、知り合いのお坊さんに教わった仏教の「空」という概念。「あること」と「ないこと」は一緒だっていうことの意味をとにかく知りたくて。でも荒神は知っているらしくて、「目を閉じたら世界はない」とか、お坊さんと同じことを言うんです。知ったかぶりかもしれないけど(笑)。
荒神南川はいろんなところでおもしろい話を仕入れてきて、私にいろいろ質問してくるんです。南川とか鑑賞者が気づいて発した言葉が、私にも響くことがよくあるのですが、その人がどういうふうに考えて気がついたのか、その過程に今は関心があります。今回の作品でも鑑賞者がどう反応して、それをどんなふうに吸収できるか、すごく楽しみですね。
取材を終えて......
お互いを信頼し合っている3人ですが、もともとアーティストとして活躍してきた実力のある人たちが、チームになるという選択は決して簡単ではなかったはず。だからこそ週1のメンタルミーティングもいまだ必要なのでしょう。しかし、さまざまな感情を掻き立てる作品を発表し続ける彼らは、すでに唯一無二の存在。2020年には、なんと東京の空に「誰かの顔」が浮かぶそうです!(text_ikuko hyodo)