「民藝 MINGEI -Another Kind of Art展」を舞台に開催された、「六本木、旅する美術教室」。アーティストの鈴木康広さんと、21_21 DESIGN SIGHTのプログラム・ディレクターを務める前村達也さんに、民藝展の感想や美術教育の現状などをうかがいました。 第4回の先生は、アートナイト2018で大好評を博した「空気の人」の生みの親である、アーティストの鈴木康広さん。21_21 DESIGN SIGHTで開催されている「民藝 MINGEI -Another Kind of Art展」を訪れました。21_21 DESIGN SIGHTのプログラム・ディレクターを務める前村達也さんを案内役に迎え、ギャラリーツアーを行いました。「民藝」とは、思想家の柳宗悦氏が提唱した造語。1925年、柳氏は民衆の用いる日常品に美を見出し、民衆的工芸を「民藝」と名づけました。その多くが無名の職人たちによる素朴な日用品である民藝は、どのような視点を持って臨めば楽しめるのでしょうか。
「民藝 MINGEI -Another Kind of Art展」鑑賞後の感想をうかがうと、鈴木さんから意外なひと言が。
鈴木康広 実は僕、若い頃は民藝が苦手だったんです。民藝品を見ていると、当時の自分がやろうとしていたことを否定されているような印象を受け、辛かった。アーティストは、とにかく自分の感じていることや考えていることを形にしたい生き物。なんとも言えないものを誰かに伝えるために、作品をつくっている。でも、民藝品はいい意味で、伝えることを諦めているんですよね。それなのに、作品から自然に何かが湧き出ている。アーティストとして、自分がやろうとしていたことと真逆なので、それを受け入れることができなかったんです。
でも、徐々に民藝を観る視点が自分なりに芽生えてきたと感じます。現代社会の考えになじめず、どこか不自然な取り組みとして始めたはずのアートワークが、続けていくうちに自然さを獲得し始めたように感じられたからです。民藝と出会うタイミングというのも、大事だと思います。
前村達也 民藝品には、内側から湧き出てくる"人間らしさ"があるんですよね。職人がひとつひとつ手づくりしていることによって生まれる"自然な歪み"が、作品の個性であり、愛らしさなんですよね。
鈴木 僕はそうした歪みから"自然"を感じます。人はいつからか、「歪みのない整えられたものを生み出す技術」を礼讃するようになりました。歪みがあるものは、一般的に良しとされないんですよね。実は僕は首が傾いていて、証明写真を撮る時に必ずカメラマンに首の位置を直されるのですが、そのたびに「こうあるべき」という社会のあり方への違和感が生じるんです。僕の首は自然に傾いてしまっているのに、それが「間違っている」「見苦しい」とみなされることに、気持ち悪さを感じるんですよね。民藝品は、人間の手と物理現象の間に生まれた"自然の歪み"が、そのまま作品に残っている。大量生産によって日用品が均一化している今の時代だからこそ、不揃いな民藝品に惹かれるのかもしれません。
【民藝の見方#6】
民藝品が残した"自然の歪み"を楽しむ
鈴木さんの鑑賞における自由な発想が印象的だった今回のツアー。鈴木さんは、武蔵野美術大学で准教授を務め、小学校の美術の教科書の制作など、美術教育に直接携わっていますが、現状の美術鑑賞教育について、どう考えているのでしょうか。
鈴木 僕は、小さい頃から言葉にすることが苦手で、特に文章にすることができなかったことで、非言語の感覚が自然に培われた気がします。その特性によって、人よりも発想の自由度が高いかもしれません。言語コミュニケーションが苦手だったことで、何かに疑問を持ったとしても、人に聞いたりせずに、妄想や想像をして自分の頭で考え続けていたんです。そんな僕のように、感情を言葉にすることが苦手な人にとって、美術教育は非常に役立つものだと思います。
しかし現代の美術教育では、美術の知識を学ぶことに比重が置かれてしまっている。美大も社会で活躍できる人材を育成する場と位置付けられているがゆえに、知識や使える技術を教えざるを得ないんですよね。
さらに、美術の授業でよく言われている「作品を見て、自由に想像しましょう」といった言葉にも違和感があります。「自由に想像する」のは簡単なことではありません。想像とは制御できることではないです。むしろ、人は、無意識に頭に浮かぶことに対して「今はそんなことを考えるべきじゃない」と蓋をしがちです。
そうではなく、作品を観ながら「今日、洗濯できなかった......」とか「あの人、元気にしているかな?」みたいに、まったく関係のないことを思っても良いのではないか。それが本当の意味での「自由な想像」。でも、先生に言われると、どうしても作品と関連性のあることを思い出さなければならない状況になってしまう。"正解"を探そうとしてしまうんですよね。でも、本当は一見すると関連性のない発想にこそ目を向けるのが、大事だと僕は思います。
前村 教育の現場では、どうしても"正解"が求められがちですよね。
鈴木 正解を意識すると、想像力が乏しくなります。たとえば「それ、いいね」と言われた瞬間から、考える必要がなくなってしまったり......。しかし僕は、今回の民藝展では、深澤さんの言葉が鑑賞の後押しになって、かつて苦手だったはずの民藝が、むしろ憧れの対象になりました。美術教育も、多様な人材の「背中を押してあげる」ものになればいいと思いますね。学校で「これが正解です」と教えるのではなく、新しい視点を持てるきっかけを提供する。提供するというよりも、自然な形でそのきっかけを掴めるような場を生み出すことが大事なのかもしれません。
民藝についてまったく知識のない子どもと一緒に民藝展を訪れる場合、大人はどのようにアシストしてあげればいいのでしょうか。
前村 子どもに何かを教えるというよりも、子どもが作品をどう捉えたのか、を知りたいですね。小さい子どもと大人は、視点の高さが違うので、見えている世界が全く違う。子どもに一眼レフを渡して自由に撮らせると、すごくおもしろい画が撮れるんです。全部下から目線ですし、パッと見たら何の変哲もない景色でも、よく話を聞いてみると「ここにこんなものがある」と言っていて、意外な場所にピントを合わせていたり。そうした「子ども目線でおもしろいと感じたこと」を集めてみたいですね。
「大人が見方を教える」と考えるのは、非常におこがましい気持ちになります。しかも、作品の評価に関しては、大人でも意見が分かれます。経験値の違う子どもに「これが良いよ」と伝えるのは逆に直観を押し潰す可能性がありますよね。子ども向けの体験型展示などを企画することもありますが、民藝展のようなものを「子どもはこう感じるだろう」と予測することは、なかなか難しいですね。
鈴木 子どもは「作品の見方」を考えないじゃないですか。でも、周りの大人が「どう見ているのか」をすごく観察していると思うんです。「これが大事なんだ」「こうやって見るのか」と、空気を読むのが非常にうまい。だから、大人が熱中して作品鑑賞している様子を、子どもに見せる機会があればいいんじゃないかと思うんですよね。そうすれば、理解はできなくても、「自分にはわからないけど、これはおもしろいものなんだ」と入り口を開くことができるかもしれません。
たとえば演劇のように、「作品鑑賞をしている人」を大人が演じ、それを観せてもいいかもしれません。作品のうんちくを話す人がいたり、意見が割れてケンカをしている人がいたり......。むしろ大人にとって鑑賞演劇はとてもヒントになるかもしれません。
普段どのようにして美術鑑賞を楽しんでいるのかという質問に対しても、鈴木さんならではの楽しみ方がありました。
鈴木 とにかく疲れないようにしています(笑)。展示作品全てをじっくり見て回ると、ヘトヘトになってしまうじゃないですか。だからまずは早足で全体を回って、ピンときた作品をじっくり眺めます。僕は学者ではないので、通り過ぎようとした僕に対して「ねえねえ」と呼びかけてきた作品だけを見ていますね。
そして、気に入った作品があると、「自分でつくってみたい」と思うことが多いですね。僕は子どもの頃、『キン肉マン』や『ドラゴンボール』などのアニメキャラクターが大好きで、見るだけでは満たされずに絵を描いていたんです。そうすると、身体的にも満足感を得られたんですよね。そうやって、気に入ったものをつくってみたくなるのは、ごく自然な行為だと思うんです。しかし一般的に、「模倣はよくない」と考えられがちです。欲しいと思ったものを買うのではなく、自分が扱える素材でつくってみる――そうした考えが世の中にもっと普及していけばいいと思いますね。
作家の名前や制作時期など、作品の裏にあるストーリーを介さずに、作品そのものと向き合うことが求められる、民藝。作品に対峙した時、心に浮かぶことは人それぞれでしょう。"正解"を探すのではなく、自分の"心の声"に反応する民藝に触れることで、自分の直観を研ぎ澄ますことができるのかもしれません。