機械ができること、人間ができること。ギリギリのせめぎ合いがおもしろい
ときにオープンリール式テープレコーダーを楽器として操り、ときに古い電化製品を電子楽器として蘇らせ、自らの体を使って音を表現する和田永さん。音楽とアートの領域でつくり出す唯一無二の作品、パフォーマンスで注目を集める和田さんは、2019年2月21日から行われるTOKYO MIDTOWN × ARS ELECTRONICA「未来の学校祭」への参加も発表されました。ものづくりの原点と「未来の学校祭」で表現したいパフォーマンスについて、そして役目を終えた家電とテクノロジーで生み出す独自のアートを通じて、今後向かいたい場所を聞きました。
僕は、主に古い家電を楽器に蘇らせて、それを使ってパフォーマンスをしているんですけど、それは子どものころからの妄想が原点になっているんです。たとえば、遠い放送局の電波を拾ったときの不安定なザーッという雑音を聞いたり、ブラウン管に映る砂嵐を見たりしたときに、ラジオやテレビは人が知覚できない何かを感知する装置で、その向こうには謎めいた世界が広がっているように感じていました。僕の造語で言うところの「異界情緒」です。それって、割と共通の感覚だと思うんですよ。ただ、僕の場合は、「電気の妖怪がいそうだな」という妄想が広がって、次第に重症化していった(笑)。いまやっているパフォーマンスは、そこから広がり続けているパラレルワールド的な世界観を具現化している感覚でもあるんですよね。
家電を楽器に変えるきっかけになったのは、中高生のころにいじっていたオープンリール。モーターが壊れて手で回したときにこれまた時空がゆがんだような摩訶不思議な音が鳴って、それこそ知らない国の楽器に出会ったような衝撃がありました。同時に、自分の体の動きと音が連動する体験をしたわけです。初めてギターの弦を弾いて、ジャーンと音が鳴ったときのような感覚でした。その後、「Open Reel Ensemble」の結成につながっていきました。
オープンリール
そして......気づいたら、ブラウン管を叩いていました(笑)。僕がつくった楽器に、『ブラウン管ガムラン』というものがあります。簡単に言うと、ブラウン管テレビから出る静電気を手で拾って、足に巻いたコイルを通してギターアンプにつなぐと、体がアンテナになって音が鳴るというもの。よくインタビューで、「何でブラウン管を叩くことになったんですか?」って聞かれるけれど、もう細かい記憶がないんですよね。静電気を拾って音が鳴るとわかってから記憶が飛んでいて。気づいたら無我夢中でブラウン管を叩いていました(笑)。
ブラウン管ガムラン
小さいころに見た海外の光景からも、大きな影響を受けていると思います。自分のなかで、いまに至るまでのフェーズがいくつかあるんですけど、その第一段階が幼いころに両親と行ったインドネシアで見たガムラン。第二段階は大学時代にベトナムの寺院で、仏像がビカビカ光っている光景を見たことですね。更に蛍光管が明滅する中でお坊さんがエレクトリックな弦楽器を奏でてお経のようなものをマイクで歌っていました。音はバリバリに歪んでて。おかしくないですか?(笑)ある種、映画のような世界がリアルな日常にあって、そのときに電気の魔術性というものを目撃した気がしました。
楽器という面で衝撃を受けたのは、トルコに行ったときに出会ったエレクトリック・サズ。サズは現地の伝統的な弦楽器で、本来はアコースティックなのですが、エレクトリック化されたものがあるんですよ。"微分音"と言う白鍵と黒鍵の間の音が鳴るんですけど、聴けば一発でアラブの音だとわかる独特な音階で、それですごくサイケデリックな音楽を奏でるんです。ちなみにモスクからラウドスピーカーで街に流れる、礼拝時間を知らせる歌は、これまたバリバリに割れていました(笑)。テクノロジーがすごくマジカル、かつミラクルな印象として残りました。電気電子的な楽器って宇宙を表現する楽器として歴史的に使われてきたと思うんですけど、電気的かつローカルなものって「異界情緒」と「異国情緒」が合体している謎の魅惑があるんですよね。
僕が家電を楽器にするときは、家電そのものが持っている説明書に載っていない力を引き出すことから始まります。「え!? お前、そんな得意分野あるの?」みたいな。家電としてリタイアしたものなので、要は定年後なわけですよね。でも、実はすごくアクロバティックなおじいちゃん、おばあちゃんだったっていう感じかな。それで、「じゃあ、これやってみない?」って誘ってみるんです。「才能あるよ! 楽器になれるよ!」って。転職のススメですね。
2015年からはエンジニアをはじめ、たくさんの方々といっしょに電子楽器を創作して、合奏する「エレクトロニコス・ファンタスティコス!(以下、ニコス)」というプロジェクトをスタートさせました。2月21日から始まるTOKYO MIDTOWN × ARS ELECTRONICA「未来の学校祭」に、僕も参加させてもらうのですが、今回はその「ニコス」としてパフォーマンスします。
エレクトロニコス・ファンタスティコス!
「未来の学校祭」では、先ほどお話した『ブラウン管ガムラン』を使って、その場にいる人々とともに"通電の儀"を執り行いたいと考えています。"通電の儀"は、ブラウン管から拾った静電気を人が手をつなぐことで伝えて音を鳴らす創作セレモニーです。僕のライブから始まって、最後は会場全体を楽器にしていきたいなと。
TOKYO MIDTOWN × ARS ELECTRONICA「未来の学校祭」
しかも、パフォーマンスをする東京ミッドタウンのアトリウムは吹き抜けになっているので、下の階と上の階を音のレイヤーに見立てていくのもいいかなって考えています。言うならば人がつながり、電気がつながり、心をつなげるパフォーマンス(笑)。そんな"通電の儀"が、未来の学校のギリギリな朝礼ということで!
同時に、それが一種の踊りにもなるといいなとも思っているんです。踊りのなかに演奏を包括することは、僕自身常に探索していること。今回は"祭"という名のイベントなので、リンクするんじゃないかと思っています。
祭と言っておきながら......最初は「ギリギリ」という今回のテーマのほうが目に飛び込んできました。でも、ギリギリというワードも僕のやっていることにつながるんです。役目を終えた家電をどこまで転生させられるか、極限までどう可能性を広げられるかに挑戦しています。それと「ニコス」は、さまざまな人を巻き込むことで生まれる偶発性を大事にしていますね。人と人との間でギリギリが共有されたとき、爆発力みたいなものが生まれる瞬間があるんですよね。
僕自身のギリギリは、またちょっと違う話になるかもしれない。そもそも常に綱渡りだし(笑)、つくったり演奏するときもギリギリにアイデアが浮かんで、直前までできることを模索しているし。あと、自分の体のギリギリに挑戦している感覚もありますね。僕たちは生身の人間がライブ演奏しているので、自分の体をどこまで音楽にしていけるかっていうことがやっぱり大事。
そもそも楽器の真価って何かと考えたとき、音楽を奏でるという意味においては、今やすべてコンピューターで演奏しても成り立つんです。それこそ曲自体をどんどん機械が考える時代になっていくだろうし、リスナーとしてはどういう形であれ、極端に言えばいい曲が聴ければいいですよね。でも、プレイヤー側が本当に音楽を楽しもうと思ったら、自分の体と音がどうつながるかっていうことが楽器に希求される。テクノロジーが進歩する一方で、人が介入しなくなったらプレイヤー的に退屈になってしまうテクノロジーが楽器だとすると(笑)、機械と生身の人間のある種のせめぎ合いがここに宿っていますね。その実験と挑戦の対象が何で家電なんだっていう話ですけどね(笑)。ただ、僕は家電が現代における民族楽器になり得るとガチで確信しています!
そういうギリギリのせめぎ合いも含め、「未来の学校祭」では実験的なことをしたいですね。もし......うまくいかなかったら、すみません!(笑) でも、何かしらおもしろい時間と空間が立ち現れるんじゃないかと、僕自身も楽しみにしています。