生活と創作作品が一体化したとき、リアリティが生まれる。
誰も想像しなかった場所、カタチ、空間。一見、突飛に思えるが、実は何よりもその土地になじみ、その場所の魅力を引き出している――。そんな建築をつくり続けている石上純也さん。現在、パリのカルティエ現代美術財団で開催されている『Junya Ishigami, Freeing Architecture』でも高い評価を受け、9月まで会期が延長されたばかり。そんな石上さんに未来の都市がどうあるべきか、そして六本木がアート、デザインの街になっていくために何が必要かを聞きました。
東京の中心部でもある六本木は、いろんなものを世界から呼び寄せ、また、簡単に見せられる状況、環境ではあります。でも、アートという視点で、その街を盛り上げようとするのなら、アーティストがそこに住んでいないといけないと僕は思うんです。つくり手のアクティビティと作品を見せることが一体化していないと、リアリティとして見えてこない。たとえば、ニューヨークは昔ならソーホー、今はブルックリンという街に多くのアーティストが住み、そこでの生活スタイルと一体化して作品ができあがっています。そういうあり方ができないと、単なる展示会場、見本市みたいな形になってしまうし、文化は生まれない。そういうリアルな芸術活動ができる場を、生活から掘り下げていくことが重要だと感じます。
だからといって、アーティストレジデンスのようなものをつくればいいかといえば、そうではないんですよね。もちろん、ある程度の誘導は必要かもしれない。でも、与えられるより、自然発生的にアーティストが集まってくるポテンシャルを都市の中に残すことを同時にやらないと、長続きしない。
生き生きと街に根差したものになっていけば、自然と "東京らしい" "六本木らしい" アート、デザインが生まれていくんじゃないかなって。今六本木にある美術館やアート施設はちゃんとある視点ではうまく役割を果たしているとは思うのですが、それ以外にどこからも持ってこられないこの場所から生まれたアートがあるといいですよね。それが、街のまんなかでできたらすごいことだと思います。
創作のオリジナリティについて考えるとき、その人の内側から湧き上がってくるものはもちろん重要です。でも、同時に、その人の外側のさまざまな要素に導かれて現れるものでないと説得力がない気がしています。
たとえば、生まれ育った環境や今いる場所や周りの人間など、外側からくるものに自然と導かれていくプロセスから生まれてくるものに、僕は魅力を感じます。特に、僕の場合、建築をやっているということもあって、いろいろな創作の根源が、その場所やその土地、あるいは、クライアントが元々持っているものの延長にあるように思っているからかもしれません。場所が持つ固有性やクライアントの個性によって、現れる解答はその都度異なるし、むしろ、それら外的要素を自分なりに繊細にこつこつとショートカットせずに積み上げていった結果、形づくられたものに、独創性が宿るように感じています。一般性に照らし合わせると省略できるものでもショートカットせずに積み上げていくことが重要です。そうして積み上げられたものは、自然と一般性から逸脱していくものです。
そういう意味では、極論を言えば、突拍子なく突然現れる、ほかと何も関係を持たない閉じたアイデアにはあまり魅力を感じません。どちらかと言えば、アイデアそのものは誰でも考えられると思うのです。今の時代、さまざまな人が考えた多種多様なアイデアへとても簡単にアクセスできる気がするし、それ自体はあまり人に感動を与えないように思っています。どちらかというと、そのアイデアを現実の世界でどうやってフィットさせていくことができるか、現実のコンテクストにどのように関係づけて、実現していくことができるかが重要です。眼の前に現実に現れる景色に対してこみ上げる感動は、いろいろなものが情報化されていく現代において、特に心の奥底に突き刺さります。だからこそ、リアリティとともにものがつくり出され、それをそのリアリティとともに表していくことが重要だと思うのです。
カルティエ現代美術財団での『Junya Ishigami, Freeing Architecture』でも展示しているいくつかの作品も、ある意味唐突に見えるかもしれませんが、それは、それぞれのプロジェクトのコンテクストを理解していないから。それぞれをよく眺め、プロジェクトが理解できたときには、とても自然で当たり前のことのように感じるはずです。不自然にも見えるようなとても強い考え方を、できる限り自然に、誰でも受け入れられるようなものにしていく過程は、僕の中ではとても重要で、作業の大半のエネルギーはその部分に使われています。たとえば、神奈川工科大学の『KAIT工房』。これはたくさんの細くて薄い柱によって構造も空間も同時に生み出そうと考えたプロジェクトです。
『Junya Ishigami, Freeing Architecture』
KAIT
しかしながら、たくさんの柱で建築を計画するというアイデアなのに、できあがった空間に入ったときに柱が邪魔で鬱陶しいと感じてしまったら元も子もありません。だからここでは、どれだけ少ない柱で、柱が多いという表現ができるかを真剣に考えました。柱が多いというメリットを保つことのできる、最低限の柱の本数が何本かを探りました。写真で空間の雰囲気をみると多いと感じるかもしれませんが、実際に入ると、不思議と柱の存在感はすうっと消えていくように感じると思います。
どんなに極端なものも、誰でも受け入れられる状態にすることが重要なんです。もっと簡単に言うと、パソコンや携帯もそう。気づいたらみんなが当たり前に自然と持っていた。そうやって、いつの間にかフィットしているものをつくるって簡単ではないかもしれませんが、ひと晩で全く異なる世界をつくりだすような革命的な変化をあたえる強制的な力よりは、いつの間にかみんなから受け入れられている「浸透力」のほうが、現代においては強いように思うのです。強力な浸透力をもった透明な価値観は、多くの人が触れる建築を考えるときには、とても重要な価値観のような気がしています。
ロシアで『モスクワ科学技術博物館』の増改築をやらせてもらいましたが、歴史的建造物なので建物を壊しちゃいけないんです。建物を残す、ポテンシャルを保つ上では、既存の建造物を生かすことがとても有効ですが、それゆえの難しさもありました。たとえば、建物の上から新しいものを被せて覆ってしまうような取ってつけたリノベーションなら、法律的には通しやすいんです。新しく覆った外を壊せば、もともとの建物に戻るから。でも、それだと建物の見た目も雰囲気もまったく変わってしまって台なし。その建物がもともと備える雰囲気などよりも、ハードとして、躯体が傷なく残ることのほうが重要なのです。
モスクワ科学技術博物館
それはもちろんそうなのかもしれませんが、古い建物をどうやってその雰囲気を保ちつつその可能性を引き上げていくことができるか、現代の価値観に合わせつつ古い雰囲気を残すことができるか、そういうことを本当は真剣に考えなければならないと思うのです。このプロジェクトでは、そのような価値観のひとつの解答として提案したつもりです。もともとあるものに手を付けずに大切に保存することは大事ですが、それ以上にその街、場所、建物の持っている可能性を最大限に引き上げ、現代においてもそれらの歴史性や場所性をちゃんと僕たちの感覚をもって体感できるようにしていくことが、建築家の役割だと思うんです。
現実の世界で、その現実の可能性を更に高めていくことこそが、建築の可能性だと思っています。パソコンや携帯があれば、場所や時間に関係なく、いろいろできてしまう時代です。そのなかで、建築の役割は、その場所でその時にしかできないサイトスペシフィックなポテンシャルを高めることです。建築は動くことができません。動けないからこそ、そこに生まれる可能性についてこれからも考えていきたいです。
取材を終えて......
2017年の21_21 DESIGN SIGHT『「そこまでやるか」壮大なプロジェクト展』、2018年の森美術館『建築展』と、2年連続六本木で展示を行うことになった石上さん。事務所も六本木に構え、さぞかし六本木のグルメ事情にも詳しいのかと思いきや、実はあまり六本木で食事をすることはないのだとか。「好きなバーはあるんですけどね」と話す石上さん。イメージ通りのスマートでおしゃれな方でした。(text_nana okamoto)